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我れ若し女帝の密使なりせば

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『いくたびかちみもうりょう』

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主催:::舞踏ー天空揺籃 舞踏公演
「いくたびかちみもうりょう」
グラン パ ドウ トァ Grand Pas de trois
出演:三浦一壮、ベロニカ(Weronika Żylińska)吉本大輔
11月4日(月)




心神喪失から目を覚ますとw
https://lecorsaire.exblog.jp/27853294/


周囲は夜の闇につつまれた、北千住だった。夜空がうっすらと明るいのが鬱陶しい。あびるような星屑の瞬きをみたいのに、ひとつかふたつしか見えてこない。日本の悪意を感じる。いやもちろん日本の政治の悪意とかではなく、日本のエレメントのうえに胡坐をかいた、此岸そのものの退嬰感に。
『北千住BUoY』の入り口に、吉本大輔さんの公演おなじみの「アリアドネの緋色の紐」が床を這っていて、会場の地下までつづいている。大輔さんの公演を観るのは、2年ぶり。

会場は、照明のうす明るさになまなましく彫り出された、地下銭湯の広大な跡地。舞踏には廃墟が合う。 今後もぜひ残し続けてほしい廃墟だ。
『ドナウのさざなみ』みたいな音楽がオルガンじみた音で会場をみたしている。地下なので、支えの柱があっちこっちに立っていて、柱の陰で弾いているみたいだ。公演前の会場をあるきまわっている人波をながめてると、だんだん、ここが日本にみえなくなってきた。「舞踏」は、英語でもフランス語でもポーランド語でもButoh。二ホンから発信されて、世界各地にButohのまま根をおろしている。創作ダンスには振り付けがあるのに対し、舞踏には振り付けがなく、踊り手の心身から湧き上がってくるエレメントに受肉する。しかしまだ公演が始まってないのに、舞踏の輪郭を浮き出す白塗り(ドーラン)の匂いがプンプン漂うので、脳内では舞踏Butohが、かまわず拡散しつづけて止まらない。
・・・・・・・・・・・・・・・




脳内から飛び出すように、舞踏が、「四羽の白鳥の踊り」にのって、始まった。舞踏はそれ自体が荘厳さを志向するものではないので、あそびに見えれば見えるほど、その円周は、出発の予感に妖しい磨きをかける。あそびですよ、悪戯。ね。



おおっ・・・・・・・・・・・・・



舞踏の鳴動しか存在しない時間が、水平に移動するのではなく、垂直に鳴動し、時間は舞踏の、荘厳な残像に抱擁される。

幻視にみちた、風windが、舞踏へとながれこむ。


彼岸花と此岸花の旗めきの二つ流れが、振動し、ドーランの白と、からだに巻き付けた糸の赤色へと、舞踏的な超ひも理論で、むすびつくのが見える。


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オダリスクが見える。
アングルが描いたスルタンのトルコ風呂の、沈鬱な極彩色をのみこんだ、白い肌が、その奥底をのぞきこんでこいと、無言で、観るわれらに無限の意識拡張を促す。


三浦一壮の舞踏のあしもとから揺れる長い長い影法師を目で追うように飲み込んでいく。それは最高に淫靡でうつくしい晩餐だった。






舞踏というのは、技術的に鍛え上げたからだを、技術的な精度を駆使して、縦横無尽に踊りまわるようなものを想像した瞬間に裏切られる。
踊り手もそうで、技術的に磨いたすがたを見せつける、半端なナルシシズムに取り憑かれていても、目撃者はそんな自己陶酔を無視する。
そのような世界には、時間の長さも、短さもない。

キアロスクーロ・・・・ルネサンス絵画でこの世に登場した、強烈な明暗が、水平に移動するのではなく、垂直に鳴動する舞踏を、荘厳な手つきでつつみこむ姿に息をのんだ。



鳴動に寄り添って鳴る、バッハのマタイ受難曲の一曲、「憐れみたまえ わが神よ」がジャズピアノのリズムでおどったり、這いずり回ったり。
舞踏が、それに頬をすりよせるので、すすり泣きが我知らずこみあげる。
ジャズでもクラシックでも、ミッシャ・メンゲルベルクのジャズピアノでもヴィレム・メンゲルベルクの指揮でも、いずれでもあるバッハが、舞踏の超ひも理論の蜘蛛の巣にかかって踊り続ける星群の美しさに。



おお・・・・・・・・
Erbarme dich, mein Gott~♪ 

マタイ受難曲を朗々と歌う女声まで聴こえてくるではないか。すすり泣かずにいられなかった。 
Weronika Żylińska、歌ってるのはもちろん彼女ではない。しかしWeronikaの、息がとまるほど美しい横顔が会場に、無限大に膨れ上がっていく。




吉本大輔さんが、廃墟風呂のなかにいる姿が、柱のかげにかくれて本人は見えないが、風呂場の鏡に映っている。手にした紅いヒールを、パン!パン!と、タイルに叩きつける。
東生田会館で、大輔さんが便器をかかえて(便器を天井から吊るして)いるのをずっと見てきたが、ついに風呂が登場。これは・・・・・・・・・・・これは淫暴にちがいない、超ひも理論の。口には赤いひもをくわえている。ドーランを塗りつめた身体が、これまでに幾度も見た、キリストの磔刑像から拡散した、生きることへの苦悩を現出した、「悶え」を、やはり今回も見せてきた。観るわれらに無限の意識拡張を促す、覗き込んで来い!身体のその奥底をのぞきこんでこいと、無言の苦悶で。苦悶の肌に、旗めきの風がただよう。歩き出す、くどいようだが水平に移動するのではなく、垂直に鳴動する舞踏を拡散させて!



PAブースの一角から、さまざまや色の髪をふり乱した弦楽合奏が左右に迸る。ヘンデル作曲の「サラバンド」が、はじめに超ストリングス理論の弦楽合奏を吠え、吉本大輔の脳天に火を爆発させる。次の瞬間、鍛錬で磨き上げた身体が、技術性を逆落としにして、荒れ狂う。ヘンデルも舞踏も、たがいに掴みあって、日本語でも英語でもフランス語でもポーランド語でもButohも呼ぶ空気空間が、北千住を離れ、日本をも離れてゆく。「サラバンド」を奏でる楽器が、ギター一台に変貌しても、舞踏はその奔流をやめようとしない、脳味噌が、黒い黒い、黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い黒い脳液の蜜のかおりを脳皺からしたたらせて、逆袈裟の白色の旗にはらんだ風の吐息を舞う。


ああああああ、
あああああ、
ああああああああ!

旋風に揉み崩されるパオロとフランチェスカの地獄絵図か、はたまた・・・・・観るわれらに、無限の意識拡張を促す舞踏のすえに、脳脈が擦り切れた。
心神喪失から数時間しか経ってないので、擦り切れるのが早かった。でも幸せ。






脳内から、「四羽の白鳥の踊り」が逆流する。
赤ちゃんの泣き声をあげながら(これは詩的な盛り付けではなくホントに泣いてた)

荘厳さを志向しはじめたら腐り出す舞踏を、悪戯でしめくくってくれました。



旗めきの、風が去り、舞踏はおわった。



# by lecorsaire | 2019-11-12 14:52 | 公演

シロノヲト。+xx6

11月4日(月)りくろあれ『弦月音 -ユミハリネ-』於 アンティークスタジオみのる(経堂)




『弦月音 -ユミハリネ-』は3部構成で合計数時間におよぶ長丁場だったが、夜は北千住で舞踏の公演鑑賞がひかえていたので、私はその第1部の「シロノヲト。+xx6」だけに立ち会ってきた。しかし1時間ほどの「シロノヲト。+xx6」の会場をあとにする時、体がばらばらになるんじゃないかと心配するほど苛烈な消耗が、心身すべてにまわっていた。外にでた瞬間に、吸った空気で、全身が破裂しそうになり、駅にむかってあるいている足が、全然べつの方向にむかっていたりと、平静な頭の働きに戻るまでに1、2時間くらいかかってしまった。
歌と、朗読と芝居がラストにむかってその密度を高め、幅と弾力を増幅させる。演者3人(大島朋恵、水川美波、こもだまり)の舞台の把握力は揺るぎないが、そのところどころに、意図的な構成の「ズレ」を噛み合わせていて、観る+聴くの鍔迫り合いが葛藤しはじめた。おおっ、これは今後の展開が楽しみだぞ・・・と、客席前列で腹黒さを舌なめずりしていると、どうだろう。クライマックスに至って、・・・5つか、6つくらいの異次元空間が生まれ(演者3人と、歌と、音楽と、公演そのものの空間)それぞれの空間が、同時に、高密度に動き回わりはじめたのだ。
「ああっ、これは凄いぞ!うわっーー!!俺、いま大変な公演を観ているし聴いている!!!」もはやひとつひとつが、音楽や演者であることを超えて、密度が高くなりすぎた異次元空間たちになって、巨大建築をつくりあげているだけでも凄いのに、建築(構築、調和)の合わせ目が「絶妙に」ズレていることが、ひさしくあじわっていない明晰な知覚で肉迫してきて(いうまでもないが、ズレを指摘している事は公演の不出来を皮肉っているわけではない。構築や調和が、整いすぎてしまうと、公演はかえって痩せてしまうものなのだ)大島さんの歌が、漢字で湖と書いて「うみ」と読むほど広大な地平線をえがいて、その線がどんどん霞んでいく様子、こもださんの朗読が、文字すべてを宙にうかべてバビロンの空中庭園の荘厳な廃園を出現させる様子(大島さんとこもださんの同時発声の歪なズレが生み出された瞬間に、いままで聴いたどんな音楽よりも息をのむほどの煌めきが走った)、水川さんがずっと掛けていた寝椅子から立ち上がって幽歩する、あざやかな残像が目にくいいる舞踏のような様子。
ストーリーの水平移動ではなく、物語を飲み込む垂直運動の苛烈さ、ジョルジュ・バタイユのように書くならば、調和の不安定化による「聖なるものの出現」を味わってしまい、会場で吸い込んでいる空気が、その濃さの水位を沸点まで最上昇させたやつが、脳味噌めがけて押し寄せてきてしまったわけだ。もう、息が続かなかった。終演直後に、体がうごかないくらい圧倒された。







「でさあ、
どんなストーリーだったか書いてないんだけど?
それだけの空気に圧倒されたんだから、ストーリーを、さぞや明晰に記憶しているんだろうなぁ?」

バタッ・・・・突発的心神喪失










# by lecorsaire | 2019-11-06 11:11 | 公演

昭和精吾事務所の公演『水鏡譚』6月25日(火)マチネ―

天井桟敷の伝説のアジテーター・昭和精吾。
装置もなく、語りの力のみで情景を鮮烈に想起させる彼の技法を継ぐ昭和精吾事務所第二世代が 昭和精吾と所縁のある二人の作家・寺山修司と岸田理生の作品を上演するシリーズ第三弾!


出演

こもだまり
イッキ(アクロスエンタテインメント/なめくじ劇場)
西邑卓哲(FOXPILL CULT)
左右田歌鈴
久津佳奈
ぜん(舞台芸術創造機関SAI)
岬花音菜

【音声出演】
のぐち和美(青蛾館)
大島朋恵(りくろあれ)
白川沙夜(月蝕歌劇団)

スタッフ

作:寺山修司/岸田理生「草迷宮」
構成・演出:こもだまり
音楽:J・A・シーザー/西邑卓哲(FOXPILL CULT)
映像・音楽統括:西邑卓哲(FOXPILL CULT)


※以上、下記リンクを引き写し
https://orikomi.confetti-web.com/item/3473


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もっと気持ちに余裕がある時に観たかったので、
いつもよりも言葉が湧いて出てこないのがもどかしい・・・・・



『水鏡譚』から味わった今回の印象は、朗読であれ、芝居であれ、言霊がふるう至上権にひざまずいている。
言葉がもちあわせる、言葉が抱え込むことができる可能性への絶対的な信頼なのか、
あるいは言葉の領分を侵犯してやりたいという不遜から来るのだろうか。
音楽も、言葉の首根っこをつかまえようとして(鏡花が放った、兎の耳をつかまえようとして)、
逆光でフォルムをうかびあげるように、滴る蜜か毒液を噴き上げる言葉の輪郭をとらえている。
今回も、未知の領域に遭遇してしまった。



ラストに登場したイッキさんの『アメリカ』については、コメントを辞退する。俺には無理です。ただし、
言葉だけで、あんなにも映像と激情を立体的に出現させ、現実がうみだす幻覚のなかに聴く者をほうりこんでしまう力は何事なのかと、終始圧倒されてしまった!




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言葉の人工楽園の中では、芝居も、時間を喪失し、メインプログラムの『水鏡譚』(原作:泉鏡花・劇作:岸田理生)に登場する小次郎法師は一時停止したっきり、ストップモーションでいつまでも不動のままその場に居つづける。舞台の中心にドーンと柱を打ち込んだ、圧倒の存在感だった。『水鏡譚』の、原作の鏡花の文体よりも奔流を極める岸田理生のセリフに役者たちの発語(映像とともに聴こえる朗読の発語)で血がかよっていくと、時間が生まれていくのが、観ていて心地よかった。
舞踏のうつくしさは、場面は短かったけれど、心に染み入った。




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『糸地獄』(作者:岸田理生)では、母をもとめて(自分をもとめて)旅をつづける少女・繭が、壁にはりわたされたスクリーンにうつる映像のまえにしゃがみこむ姿に、映像もろとも、淡い風合の錬金術のようなうつくしさに魂がとろけた。 俺の方があの映像の目の前で、放心して頽れたかった。映像には大島朋恵さんも写っていて、錬金術の雛人形かと思うほどの強烈さを披露してくださった。




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寺山修司の『李庚順』をもとにした詩劇『われに五月を』の、こもだまりさんの朗読と、イッキさんの朗読とのぶつかりあい。
朗読の神髄が、俺の目の前で扉をひろげるのを味わった。
朗読というのはCDやyoutubeとかで音だけあるいは映像で聴くものではなく、やはりリアルで聴いてこそ、迫力がわかる。
ただ、今回こもださんの朗読を聴いていて、朗読というのはリアリズムを必ずしも必要としていないのかも知れない-----------------------、と思い及んだ。



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朗読とリアリズムについては、今後の課題にしていきたい。

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# by lecorsaire | 2019-06-30 15:49 | 公演

イト2019 2019年3月10日 悠日


この舞台が、舞台芸術創造機関SAIによって放たれた、
2038年問題や2011年の東日本大震災の記憶蓄電池であることは、観ていてよくよく伝わってきたんだが・・・・・・・
このblogでは、そうゆう事よりも舞台そのものの、ショックだとか、構築性の興味深さについて触れていきたい。




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客入れの音楽が、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』第三幕の前奏曲のエンドレスで、
公演後にかかっていたのが同じくワーグナーのオペラ『ジークフリート』の"森のささやき"の、これまたエンドレス。どちらも非常に長いオペラだ。
『ローエングリン』からはスクラッチノイズも盛大に聴こえてきたのは、遠い過去と現在とが、ノイズで隔てられながらも、
確実につながっていることを示した姿なのかな#?



身ぐるみさらっていかれるうような酔いの深淵が生む#陶酔だけではなく、研ぎ過ぎた刃物の匕首をつきつけられているような#覚醒だけどもなく、
いわば両者の中間地点を漂っている感じで・・・・・・・・・・・・
最前列で観ていたのに、セリフはほとんど、「#暴虐的な酔い心地」に吸い取られて、頭に残らなかった。
舞台に身を浸しているうちに、上演時間が、そして会場の外の時間がどれだけ経ってるのか判らなくなってきて・・・・・・・・
ワーグナー狂の恋愛詩人の伝奇が原作のバレエのダンサーがスローモーションの視界に没入してピルエットを1,000回転して見える視野の中心に投げ込まれて、ものの見事に頭が混乱した。
舞台のうえで、演者たち全員が手にしている#台本は分厚くないのに・・・・・・・・。




これが・・・・・・・・・・・「#薄い本」の破壊力なのだろうか#? #こらやめろ
それとも・・・・・公演中はずっと、別次元へ放り込まれていたのか#?#?




いずれにせよ、公演が終わって時計を見たら、90分ちょっとしか経ってなかった事実には言葉を失った。
この、時間の永遠的な、時間の重層感覚は、いったい何だったんだろう#?#?#?


2019年から100年後の西暦2119年から、先生に引率されてやって来た修学旅行生たちが、『悠日』(イト2019の会場)の客席スペース前方を騒乱で満たし、乱闘を爆発させ、アミノト先生と、渋谷翼(敬称略。ではなくて役名。後述します)の説教で収束・・・・・するわけがなくて更に憤激を煽り立て、舞台開幕へとなだれ込む。
彼らにとって客は、100年前の、心ゆたかな幽霊にみえたのだろうか#? 最前列の席、#演者のすぐそばにいたから、「蕎麦って何#?」って言われてしまったり・・・・・・・・蕎麦は『悠日』の名物。




舞台にあがった演者たちは手に手に、#台本。

「イト2019」は、2019に辿り着く前に何度も公演があって、SAIの意欲的な展開によって、舞台だったり朗読だったりのイトを経ている。
3日間のうちの2日で造って、3日めに上演する「ワーク・イン・プログレス」版が今回2019年のイトなのだが、演者たちはみんな台本を持ったまま舞台のうえにあがっている。#台本#役者が、合わせ鏡みたいになって#演者たちを挟みこんでいる事に公演を観終ったその直後から薄々気がいくようになって、ならば、客達がみていたのは演者たちが造った、虚像だったということなのか#? あるいは・・・・・・芝居をみるつもりで客席にあつまった客の方が、観られる(#役者ではなく)存在だったという事なのか#? 


このblogの書き手はいわゆる「現象学」あたりにはまったく疎いので、そっちに詳しい方ならばより適格で、優美な理論をはじきだして納得するのだろうが、書き手はそうならずに、より屈曲なイマジネーションの迷宮を遊泳する愉しみへと行き着いたわけ。以下もそんな遊泳気分な感じで書いていきます。



そして公演を観ていて否が応でも肌につたわってきたのだが、あきらかにセリフが演者の体に入っていないので、対話で大きく「間」が空くのだ。


公演を観ながらテンションを煽ったこの「間」は一体何だったのか#?
2038年問題や2011年の東日本大震災の「記憶」#?
その記憶が、忘却へと追いやる狭い小ささの中に強制収容の様におしこめられ、
舞台の力で、「形」を得たのではないか#?#?##?#?


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舞台の世界は、<SEKAI>セカイを女の子の形に生み出す。
<SEKAI>とは、まるでSAIのアナグラムのようではないか。
2011年、2020年の復興五輪を経て、2038年を迎えなければいけない世界が、
理屈をならべて造られ続ける無数の壁に、
セカイが易々と、感情のちからで、無数の橋をかけてくれる願いがこめられているに違いないではないか#? 








数多くの「#?」によって周囲を取り巻いてみせたのは、
このblogでカオスを因数分解してみせたいわけではないし、
そもそもイト2019にはカオスは全く無かった。このblogでカオスが暴走しているとしても。
イト2019にあるのは、
#イマジネーションをとことんまで要求して止まない程の、
ぶっころしたくなる程の、( #おいやめろ)挑発精神だ。

セカイに恋い焦がれ、携帯端末#?とともにいつも彼女と一緒のヒカルは、先の修学旅行生とおなじ高校の生徒で、学校に燦然と君臨する天才ゲーマーなのだが、
ゲームをやっているシーンはというと、これが一度もでてこない。
ヒカルはおそらく学校でも、学ランを着ずに年中、格闘技風ファッションで通してるに違いないので、
会場になった悠日の、まるでワーグナーがギリシャ古典劇場を念頭にドイツ都心からはるか遠距離に築いたバイロイト祝祭歌劇場にも似た威相に敬意を払う、
総合武芸場を舞台に繰り広げられる異種混交の、格ゲーか#?
いやまて、レザーのジャケットだったら、スパイでも金庫破りでも着てるだろう。
だったら・・・・・
革ジャンの普段着から武装メイドに着替えた女子高生たちが重火器を乱射しあう、
#薄い本が原作の百合ゲーか#? #ホントにやめろ
というより・・・・・・・・・・
2119年のゲームってそもそもどんななんだろう#?#?#?#?#?



唐突かもしれないが、「#ルービックキューブ」っぽいものをイメージしてしまった。
ヒカルのオトウサン(カッコいい)とオカアサン(麗しい)が、セカイも一緒に巻き込んで、ヒカルの進路を相談する。おお、ほのぼのしてるぞ・・・・・と思っていると、だんだんと、進路相談の対話がどんどんと切り刻まれていく。ヒカルのオトウサン(カッコいい#?)とオカアサン(麗しい#?)が、セカイも一緒に巻き込んで、ヒカルの進路を、えんえんと相談し続ける・・・・・セリフから、意味の重みを切り削がれていき、セリフとその意味を脇に追いやった<進路相談>そのものが<事象>であることを主張し、舞台に居座り、演者たちが入れ替わり立ち代わり<事象>のダンスが人数と密集度を増幅させて、舞台から、カッコいいも麗しいも剥ぎ取っていくシーンはまるで、ヒカルが格ゲーファッションに必須な金庫やぶりみたいな手袋をはめて、さながらVR版のルービック・キューブで未曾有の多面体に取り組んでいる、ヒカルの脳内パノラマスクリーンにも見えてきたのだ。
このシーンは今後またイトが復活したときに、更なる重層感と凶暴性を発揮させるつもりなのだろう。あのシーンは舞台の、どうやら空中に浮かんでいるとみえ、未曾有の空中戦を披露していた。「イト2019」の構造的な興味深さ、#舞台の約束事の壁をこわすよりも約束事の囲いを広げてみせたくなる欲望とリンクしているだろう、#ルービックキューブの多面体の各面が、舞台の#約束事、破壊したい#約束事、因習的な#約束事、いじってみたい#約束事、・・・・・「超ひも理論」の、ひも(弦)のかたちの素粒子が、9次元のレベルで振動している。

2038年問題に端を発した未曾有の災厄を乗り越えた2119年、<地域とのつながりは、平成よりも昭和に近くなっていた(←公演リーフレットより抜粋)> 
ヒカルが天才ゲーマーとしての自信を吐露する長台詞。「唯一絶対の強さを誇るゲーマーゼリフ」を細大漏らさず聴き込もうと、耳を鋭くさせる。アルベール・カミュが舞台『カリギュラ』で描いた、荘重でドラマチックで、しかし「反・名優主義」を盛り込み大時代的ロマン主義演劇の裏返しとして露わにしたカリギュラ帝の長セリフとの親和性に気付いて#悩乱した。
ヒカルは修学旅行の中にいなかった。何故#? ほぼ間違いなく、仮病を使って行かなかった。
「僕はあんな連中とは違う世界に住む天才。修学旅行#?そんな下等な連中のための下等な行事になんか、絶対に参加してやるものか!(無理矢理に、意地を込めて)」
ところが同じクラスのみんなは修学旅行に来られなかったヒカルを気の毒に思って、みんなでお小遣いを出し合い、ヒカルのために3つくらいのお土産を買ってきてくれた。ヒカルは自分がクラスのone of themに過ぎず、しかしクラスのみんなは自分を仲間のひとりとして受け入れていた事にショックを受ける。・・・・・・・そんなバックストーリーが確実に沈潜している。



ヒカルが、コントラストの強烈な口調で、大好きなセカイに問いかけても、セカイは毎回、ピントのぼけた答えを返してくる。
ヒカルはゲームで鍛えた自信で大好きなセカイを攻略しようとしたのか。それがことごとく失敗する。
セカイを、うえから掴んでみせようにもそれができない。
セカイが、大好きで大好きでたまらないのに・・・・




舞台の最後で、客席上方にひろがるPAに集結した、ヒカルとセカイ以外のすべての演者たちが台本を破り捨てて、客席に、紙片の雨がふりそそぐ。 全面を解くのではなく破壊した、ルービック・キューブの、破壊が導いた解放。キューブがひとつひとつ、解放された姿を、台本のセリフの断片・言葉を、紙片にさらしている。



過去に死んだ、ニュートンから"We build too many walls and not enough bridges (私達は壁を多く作り過ぎて、充分な橋をかけようとしない)"と言われるたびに、
日本でも世界でも、#鬼#悪魔が橋をつくったという言い伝えはいくつもあるのに、#橋を破壊した#悪魔の話というのは聞いた頃が無いことを思い起こす。人に破壊された#橋はもう、セカイ中に大量にあるのに。
無制限に大きな希望を欲望任せに願ってみせても、それが叶うことには恐れを抱いてしまう。
人の意志がうみだす情熱と、情熱の限界#!
希望を叶えたがる心を持て余す人と人と人やヒトやヒトと人と人と人ひとりひとりが自分自身に恐れをなし、
たったひとりで#橋を造っている希望に対し、「#鬼だの「#悪魔だの名前をつけ、希望を、破壊してしまう。
情熱のむなしさ#!

皆まで言わぬが、セカイは#橋を造り過ぎたのではないのだ。#断じて違う




ヒカルの友達のクラゲは、壁面に火文字をえがくほどコントラストの強烈なヒカルのセリフに、ふわっとした発声で応えていた。
クラゲはヒカルが中2病でも、それを恐れていない。
ふたりの対話が、セリフのやりとりを全部忘却して、強烈とふんわりとのやりあいが腹におりてきて、
テンションあがるのに心地よくて、ヒトとヒトとが#違うもの同士#違うままつながっていく


#この舞台で作り切れなかった橋も勿論あって#そこは今後の課題にしてほしい


客入れの音楽が、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』第三幕の前奏曲のエンドレスで、公演後にかかっていたのが同じくワーグナーのオペラ『ジークフリート』の"森のささやき"のエンドレス。どちらもタイトルロールのオペラ歌手に、無比の英雄性が求められる。ところが、このふたつの曲をえんえんと繰り返し聴いているうちに、ワーグナーの緊張感が崩壊していくのを感じていた。
その感じを、数日ひきずって、だんだんと解ってきた。
ワーグナーの音楽を通過して、緊張感(英雄性)を要求しない舞台に、放り込まれていた事を。

SAI、そしてイトでは、個々の強さが求められる。
ゲーマーの、唯一絶対の強さだけが認められる舞台なのではないのだ。
SAIは演技の上手い役者が名演技を披露する劇団ではないと思って観ており、ヒカルの長セリフに躍動にも、SAIの「反・名優主義」は刻まれていた。






そして、来たぞ・・・・・・・・・・・・・


イト2019 2019年3月10日 悠日_d0242071_23005162.jpg


たったひとりだけ本人役で出ている、SAI制作部局長の「渋谷翼」、渋谷さんがPAから、
快活に
演者達めがけて「イト2019」、もしくは「イト」そのものを投げ込み、
アミノト先生が、それを受けとめると壁が割れるようにセリフが、えもいわれぬ祈りが尾をひいていた。
ふたりの、
体がぶちわれそうな程最上昇したに違いないテンションを前にしては
いかなる理屈も打ち勝てないだろう・・・・・・・・・「さぁ行け!!!」

演者と客席のすべてを鯨のようにのみこんで振るう、
larger than life(人生よりも大きなもの)を馬車のすがたにして、迅雷のように走らせる、御者の鞭を。  

台本も振り捨て(もはや残塵して無い)黙示的な長さの左右を、縄の網の目が弦のように振動する吊り橋を、
馬車は台本の残塵を巻き上げて突っ走っていく---------------------------まだ渡り切っていない。



まだずっと、橋は続いていく。

イトが完結する日が来るまで。

目に染みる残像は、
御者にして乗合馬車の客である
演者たちも
彼らに演者を託した者たちも
その総てが、
鞭をふるう腕。
































ところで「蕎麦」って何だっけ#?#?##?#?
















# by lecorsaire | 2019-03-19 23:14 | 公演

虚飾集団 廻天百眼 『闇を蒔く ~屍と書物と悪辣異端審問官~』 2月6日の観劇をしるす

虚飾集団 廻天百眼 『闇を蒔く ~屍と書物と悪辣異端審問官~』 2月6日の観劇をしるす_d0242071_13114973.jpg
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※以下のブログには、ネガティブとポジティブを蛇行する情緒不安定とそれに伴います偏見が相当量にわたって滲み出ていることをお断りしておきます。


死のイメージから解放されたかと思ったら、 https://lecorsaire.exblog.jp/27441879/

1月下旬に打った、ヰンフルヱンザの予防接種が副作用を引き起こした。観劇の1週間前くらいから、乃公は全身の倦怠感、気分の悪さに苦しんでいた。アタマも全然働かなくなった。

観劇(乃公はこの言葉、たまらなく好き)の数時間前に吉祥寺の商店街を歩き回っていたころに体調不良は頂点に達し、一度は観に行くのをやめようかと弱気になった。ドラッグストアで買った普段は飲まない栄養ドリンクを飲み、どうにか気分が落ち着いて、「よかった!これで観られる!」とうれしくなって、まだ開演まで数時間あるのに会場のザムザ阿佐ヶ谷の様子を見に行き、開場まえの準備中だったスタッフさんたちとお話をして退場・・・・ふたたび出直して午後6時半ごろに地下へと降りて行った。でもやっぱり、あんまり良い精神状態で観劇に臨めなかったかもしれない。迫真の演技力が続発し、そのたびに心身の奥深くから破壊衝動や怒りの衝動がとめどなく湧いてくるのを必死で抑えなければならないほどで、もしも実弾入りのピストルがふところにあったら間違いなくステージに向けて、ぶっぱなしてた。
しかしだからこそ、音楽劇であり巨躯の殺陣が入り乱れる帝国曼荼羅のような『闇を蒔く』からは、今までに味わったことがないほどの、鮮烈な印象をあびることができたのだ。客席の空間も舞台に巻き込んだ場外乱闘型の公演だったのも嬉しかった。

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役者ひとりひとりの、殺陣や音楽や、舞台美術の力量すべてに感服した。こんなに気持ちを盛大にゆさぶる舞台に出会ったのは初めてだ。だとすると体調不良から来た苦しみは、公演を観るために必要な前段だったんだと、気持ちを入れ替えることができた。『闇を蒔く』を観たその直後から、体調と気力の失調状態はピタリと止んだ!


去年とおととしに『贋作マッチ売りの少女』を上演した舞台芸術創造機関SAIのつながりで廻天百眼を知り、もう無くなった代々木の月光密造舎で主役のヱリコを演じた紅日毬子さんに会ったらすごく面白い方だったので、いつか舞台を観てやろうと、機会をうかがっていた。そして『マッチ』『卒塔婆小町』に出た大島朋恵さん、『MasqueraDead』に出演したこもだまりさん、さらには去年観た『箱男からの思想』の左右田歌鈴さんや『リチャード三世』の邑上笙太朗さんも出演するので、期待する諸々を大量にかかえて観に行ったのだが、観たいと思っていた以上のものを、存分に観ることができた。

さてと、観終った印象をこうしてブログにまとめていると、舞台から受け取ったもろもろの密度の濃さを思い返し、観劇前の体調不良とはまったく別に、やっぱりアタマがくらくらしている。『大菩薩峠』の作家の中里介山が書けなくてイライラすると鬱憤ばらしにピストルを持って山に入り、空にむかってバンバン乱射していたという話を思い出さずにいられなくなった(なんのこっちゃ)。受けた印象を言葉に置き換えると、印象が、適量な破壊感覚に変換されてしまう。印象がやたら鮮烈だったのは、不調気味だった体で観て、胸につまる気持ちが平常よりもあきらかに倍化して、つよく鮮明に焼き付いて残ったからだ。それはもう、言語化できる水位を超えてしまって、言語化しようなら、中学生の抜き打ちテストの余白の落書きくらいにしかならないのだ。とはいえ、まあ書いてみよう!


さあて、何から書き始めたものか・・・・・・
前作の『屍のパレード』を観ていないので、乃公が受けた個人的印象と、前作から受け継いだ設定とが違っている場合もあるだろうがその辺はご海容いただきたい。


クライマックスで、ヱリコとマリサの、さかしまの神慮に照りかえる刃先を駆使した拷問が未曾有の鮮血をふりしぼり、客席めがけて盛大に飛び散ってきたのがビックリした。審判(後述)の場面で、客席から盛大に拍手したツケを両手にタップリ浴びせられた。乃公が座っていた席は確か、ステージから5列目か6列目の、ほぼ中央。

『闇を蒔く』のストーリーには、全く共感できなかった。空想の産物ではなくホントにあったパンドラの匣をこじ開けたみたいに、敵意や殺意やムカつきが、十箱分くらいの火の粉になってふりかかってきた。職場のパワハラとか、野田市の虐待殺人の連日にわたるテレビ報道がグルグルグルグル駆け巡ってきて、気持ちが不安定じゃなくても共感はできなかっただろうが、露骨に不安定だっただけに、拒否反応は壮絶だった。とはいえ共感とは別に、ストーリーの展開や構成はキチンとしていて息苦しさは無かったし、ストーリーと一体化した西邑卓哲の音楽はどこまでも分厚く、歌唱・合唱のオペラチックな劇しさ(激しさではなく、劇しさ)には、客席からとびこみたくなるような高揚感を噛みしめた。ニーナ(大島朋恵)が仲間たちと歌う酒場の合唱は震えがはしるほどの、名場面だった。

狂言まわしの作家(十三月紅夜)と深淵(左右田歌鈴)が、敗戦によって政治的・宗教的真空状態をのっとられたエコクの国を、自慢の美貌にふさわしいチリひとつない端麗な仕立ての服を着こんで、自邸の薔薇園を悠々と散策するように歩いている。ふたりの周囲は未曾有の混乱が禍々しい円陣をひろげている。貧民街で暮らす姉妹・マリサ(柚木成美)とヱリコ(紅日毬子)が母親の手で借金取りの人買いに売られ凌辱される。 
深淵が、黒衣天使の笑みをうかべる。
「(嫌なものは全て)ぶっこわしてしまいましょう」
姉妹に、一冊の魔導書をわたす。魔導書からは、死の都の混乱を凌駕する禍々しさで<屍>が呼び出され、借金取りの人買いの、混乱世界の追い風をうけた服装に身をかためたラハブ(相田健太)を、瀕死にいたらしめる。
ラハブには、闇の中に瞬く光のような妹のニーナがいる。健気でいとけない、誰からも愛されるニーナが仲間たちと営む酒場には、いつもささやかな幸福がみちあふれている。しかしラハブの死は、ニーナたちの闇に火をつける。深淵はニーナのところにも現れ、同じように<屍>の魔導書をわたすのだ。
作家は、深淵よりも自分の方が二枚も三枚も上手だと思い込んでいるようで、エコクの国のカオスを丸ごと呑みこんで、バルザックの人間喜劇以上の惨劇連作長篇をかいてやろうといわんばかりに深淵とくっついて、心が闇に向かって荒んでいくのも知らずに、貧民あいての葬儀屋を演じ宅配屋を嘯き、貧民街の悲しみや苦しみ、怒りへの闇走りを、物書きの羽ペンと贅沢なインクに吸い上げていく。
魔女エンプーサ(なにわえわみ)によって、姉妹・マリサとヱリコはテッサリア寺院に連れていかれる。寺院の総長ヘカテー(こもだまり)がステージ上方に登場し、厳格な戒律のもとに寺院の少女たちに「母」であることを強要するとき、「あっ、敵だ!敵が出やがった!」と、失調している心身で露骨な嫌悪感をふりしぼった。こもださんの演技力があったからこそ強烈に抱いた嫌悪感だ。席は遠かったけど、こもださんの表情の多彩さが全身から浮かび上がってくるのを、全篇とおして感じ入った。
少女たちが懺悔をする・・・・・懺悔を強要されるシーンでは、人民を睥睨するようにヘカテーが言い放つ。「この者が有罪だと思うなら拍手を!」恐怖心を煽るだけ煽って君臨する宗教倫理を正義にすりかえて聊かも躊躇わない母性・教師性への、猛烈な不快感がこみあげてくるのを打ち消すように、盛大に拍手をかました直後、猛烈な殺意が猛毒のように押し寄せてきた・・・・・「ヘカテーぶち殺す」


教会の美術には仕掛けを感じた。
骸骨の跪拝を描いたおどろおどろしさは客にだけ見えていて、教会の少女たちの目には、清らかな天使に見えているのではないだろうか?

ニーナと行動をともにするシクラム(邑上笙太朗)は、神殿に居る姉を八つ裂きにされてしまう。彼女(レイジン 辻真梨乃)は神殿の学校では高圧的な生徒だが、ヘカテーと神殿が、貧民街に毒をばらまき人民たちを迷妄に堕として神殿への服従に駆り立てる悪策をめぐらしていることを知ると密かに反抗し、貧民街に潜入し、警告をよびかけようとしていたところを、シクラムの仲間たちによって殺されたのだ。ところがシクラムの絶望とは別に、ニーナたちは、ラハブが殺された悲しみに端を発した闇の拡散がいよいよコントロールの手綱を失ってしまう。人の心は簡単に善にも悪にもなる。深淵は、弱く心やさしい悲しみに抱かれた人間に<魔>を託す。<屍>の魔導書は携帯用革命爆薬庫になる。
シクラムは、ニーナを先頭に神殿の横暴に反抗する暴力革命勢力が漆黒の旭日旗をかかげて突き進むに及んで完全に孤立する。シクラムは、神殿よりも暴虐な怒りをつのらせている姿に怒りをつのらせる我ら客達のいわば代弁者で、仲間たちは革命への信念と狂乱が足りてないシクラムを集団リンチで半殺しにする。
マリサとヱリコは神殿のなかでかぞえきれない流血と残酷とを糧に地位を伸ばし、魔女エンプーサをも差し置いて、異端審問官とヘカテーの守護獣にまで登りつめるが、最大の敵であることを片時たりとも忘れていなかったヘカテーを討ち取るには至らなかった。

ヘカテーを討ち葬り、ヘカテーを継ぐ絶対者となったのはニーナだった。うず高いジェノサイドの山頂に立ち尽くし、虫けらの群れを見る目で睥睨する。その背後から、機関銃の乱射、爆撃の轟音が幻聴になって劇薬さながら押し寄せてきた。
表情が生む声が聞こえる。「もしお前が私よりも正しいと信じるなら、これだけの数の死者すべてを生き返らせてみせるがいい!できないだろう?できるものか!!!」ぶち殺す・・・・・・・・ヘカテーに抱いた憎悪をはるかに超える怒りがこみあげてきた。
物語りの最後で、ニーナを死へ追いやったのは半身不随となったシクラム。
その心の優しさに、深淵は、天使の笑みを浮かべて、魔導書を手渡した。「ぶっこわしてしまいましょ♡



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「愚かな!」深淵と、彼をとりまく全てに絶望した作家を、薔薇園の棘が、羽ペンの先端かペン先を削るナイフのように、群れをなして総身を打ち砕く。破壊してはならないものの多くを、愚かさが群れをなして破壊し続けた事。その破壊に加担していた自分の愚かさ。やがて破壊するものがなくなったら自分自身を破壊するしか道がないという絶望をこめて絶叫し、喪心する。




繰り返すようだが『闇を蒔く』のストーリーに、乃公は全く共感できなかった。
だが、この不快極まりないストーリーを、脚本家は、そして作家も、人買いも寺院も異端審問官も革命組織も屍も、登場人物の全員が、虚構の、えもいわれぬ繊細で崇高な世界へと誘い込んでいたのだ。

その世界のシンボルとは、
ナカムラマサ首が制作した、モチーフは仮借なく残酷だが精緻で気高い、ステンドグラス。

ステージの上方、ヘカテーよりニーナよりも高く掲げられて、
「空が白み始めてきた・・・・」ヱリコが、何度となく言うセリフに呼応するように、ステンドグラスは最も美しい光を放つ朝を謳いあげる。




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一番好きなシーンがどれだったかというと、先にも挙げたニーナと仲間たちが歌う酒場の合唱と同じくらい、ゴーダン(桜井咲黒 マリサとヱリコの<屍>)と紅日さんの舞踏のシーンが最高だった。もっと長ければもっとよかったんだが。ヘカテーのリサイタルで少女たちがペンライトをふりまわすシーンも全篇の白眉。

主人公のマリサとヱリコの、拷問される少女から鮮血をみちびく、異端審問官の熱演には頭が下がった。
鮮血が、下半身に飛び散るのはビニールで防いだが両手は真っ赤でベトベト。黒の革手袋嵌めて、帰りの電車のなかで殺人犯の気分を味わわずにいられなかった。
公演が始まる前に、客席に血が飛び散るから防御のビニールの配布をよびかける声があがると、客席まで上がってきたゴーダン曰く、「俺たちが楽しませようとしている鮮血をビニールでガードしようってのは、粋ぢゃねえよなあそうなんだけさ。



敵だとかぶっ殺すだとか物騒なことを感じて観てたけど、気分が不安定ながら、役者渾身の演技を、よくよく受け止めることができた。
ヘカテーが毒をばらまく歌にこめた、全能的な陶酔感。
カーテンコールでも、こもださんが役者全員から全幅の信頼をうけていたことがひしひし伝わってきた。
そして、大島朋恵さんの歌についても触れなければ。『贋作マッチ売りの少女』以来の"歌い手"としての再会だったのが今回の公演。『マッチ』の神奈川公演も去年の2月初めだった。もう少しソロで聴きたかったけど・・・・・ただヘカテー亡きあとの全能者になったニーナがソロで歌ったら更なる憤激がこみあげてきたかも知れないが・・・・いまはただ、カオスに支えられた大地への、抱擁と、そして祈りの歌声が、脳裏にやきついている。


物販コーナーのスタッフが修道女だった。ロザリオなんかおっぱいの奥に挟まって見えなくなってたし。
劇中歌「闇を彷徨う」サントラ集を買って聴いたら、舞台を思い返してもう涙がボロボロ止まらなくなった・・・・・・



カオスに支えられた大地への、抱擁と、そして祈りの歌声すべてに救いを。その救いを笑うすべての者に呪いを。



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# by lecorsaire | 2019-02-19 13:12 | 公演

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
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