我れ若し女帝の密使なりせば

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カテゴリ:公演( 24 )

9/29(土) 『MasqueraDead』、『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレ  1



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台風第24号「チャーミ」上陸を前日にひかえた9月29日土曜日の、既にやや不穏な雨のなか、気圧の低さにも少々だるくなりながら、<舞台芸術創造機関SAI アバンギャルドシアター>による、三島由紀夫の舞台2本が観られるという期待はやはり大きかった。最初に観る『MasqueraDead』は、三島の処女長篇で『金閣寺』に次ぐ傑作『仮面の告白』の、いわば”SAI版”といえる舞台化になる。どんな舞台になるのか。


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Ⅰ. 14:30 『MasqueraDead』
江古田駅を降りて向かった、アトリエ・サードプレイズ地下一階の『MasqueraDead』会場に入ると、最前列が既にすべて荷物で埋まっている。
「?」
入口でならんだ順に降りてきたどういう訳だと思っていたら、ほどなく『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』マチネを観終わった地下二階のお客さんが上ってきて、最前列に次々座っていった。
今回の公演、最前列で観られなかったことは、やはり、痛手だった。




私の名前はキミ。
見た目は女、心は男、好きになるのはもちろん男・・・。
そんな私が好きになってしまったのは中学時代に憧れていた、初恋相手、
先輩(女)だった!!大変!!!
とある事件をきっかけに、回りだす私たちの運命の歯車・・・。
先輩はある日、真実を告白する。
「私は、男なんです。」
待って待って!!先輩は私が男だって気が付いていない!!

『仮面の告白』をモチーフにした新作朗読劇。
告白と告白がぶつかりあう想定外過ぎる恋の行方。
その結末は如何に??!

以上、http://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/av02mishima/ 掲載の『MasqueraDead』-物語- より、引き写し。




結論から言えば、『MasqueraDead』は原作の『仮面の告白』のエレメント、息吹きも、とっくと味わえる、”SAI”がてがけた、いつもながらの鮮やかな演出と舞台だった。60分強の上映時間は凝縮され彫琢された文体をおもわせもしたし、プロジェクターが役者もろとも壁へとスマホの画面がうつしだすのも、目線が高揚するだけではなく、説得力も感じた。この舞台では終始、だれか絶えずスマートフォンを操作している。自然を精巧に模造し哲学を築きあげる日本庭園のような静かな調和をおそらくは理想にしてつくったはずの国産スマートフォンが『MasqueraDead』のなかに持ち込まれると、残酷も破壊願望も綯いまぜにして、工藝品のようなスマートさでできたマスク(仮面)の箱のふたで封じられた、攻撃し、制圧し、奪って、破壊する、ほんとうの美が、封印を解かれるのを待ちつづけているのだ。しかし、スマートフォンの画面には、うっすらと、傷がうまれかかっているのをオープニングから察知できた。


キミという名前は、三島由紀夫の本名の、平岡公威(ひらおかきみたけ)のキミだろうか、それとも・・・・・・

常盤美妃(とっきー)さんのキミが、透き通った綺麗な声で、ちっちゃくてかわいい。『贋作マッチ売りの少女』で幻想都市ロンドンのヴァン・ゴッホをピーターパンのように駆けずり回るのがかさなりあう姿で、Tokyoをパンツスーツで闊歩すれば、かっこかわいさ!で就活女子と勘違いされる。ちなみにキミ役の常盤美妃が文京区本駒込の画廊「ときの忘れもの」で忘れ物をすると「とっきーの忘れもの」になるわけだが、それは今回の公演とは関係ないw



離婚も経験しているキミは、つよくなりたい「男の子」なので、ジムに通っている。そのシーンに登場するインストラクターが、筋肉自慢のSAI製作局長渋谷翼さんだったのは、やはりといえばいえるのか。これ渋谷さん初舞台?今後もSAIの舞台に登場する??


キミのかわいさに、キミがオーミ先輩に、学生時代からずっと恋し続けてるのも知らずに、・・・・・・・・ある時オーミが、男の心で、ひとめぼれしてしまう。
三島由紀夫の『仮面の告白』の前半に、荘厳な文辞のつらなりに、澱んだ、あやかしの影をおとす「近江」が、平成に転生したのか。ふてぶてしさは変わらない。オーミは人気のユーチューバ―で、詩人で、実力のあるライター。キミはオーミが、セクハラ上司に公園で襲われそうになったところをボコ殴りして助けたのを縁に、キミの別れた夫が残した家で、ふたりは同棲をしている。



舞台は、ときおりダンスでも語っていたが、主軸になってのは、朗読劇だった。
朗読をぶつけあってうまれるセリフのやりとりは、三島独特の荘重体・デカダン文体の模倣ではない。しかし、朗読の一人称、「あたし」と「僕」と「わたし」と「おれ」が、キミとオーミのなかの女と男を、心が勝手にボールのようにうごきまわるのをもてあそび、
能楽の衣裳の残像が、幾重にも残って見えるさまをえがいているようにみえた。オーミもキミも、あるいは能面と能衣装のおもさの奥で、きりきりと炎を燃やしているのではないかと、最前列のひとつ後ろの席から、もどかしさに食い入って居た。



オーミがキミに、自分は男であるという秘密を打ち明ける場面が一番心に残った。ふたりとも客に背を向け、顔もみえないので、まるで能楽の広大無辺が奔流し、発狂して白目が金色にかわっていく顔と、銀いろの真砂と青いろのそらが脳裏にひろがってみえた。



能楽、能楽とうるさいのは許してほしい。『MasqueraDead』の次に観た『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレの印象と綯い交ぜにしないと、この仮面の告白の化身を語りきる事ができないのだから。
キミが『仮面の告白』を読んでいるシーンは、マノエル・ド・オリヴェイラの映画『アブラハム渓谷』で映画の原作の『ボヴァリー夫人』(作者はフランス語の文体魔人フローベール)を、映画の中でヒロインが読んでいるシーンを連想して観てたりしたけど、キミが舞台上で読んでいたのは、『仮面の告白』のこのシーンだろうか・・・・・・主人公の「私」が、送り迎えの駅のホームにあらわれない恋人の園子が、いままさに走り出した電車の柵のむこうから別れを惜しむ声をあげる姿に胸の奥がしめつけられる、しかし、この胸をしめつける、この「感情」は、一体なんだ??この感情を抱いた報いは、鋭い疲労で、懲罰への深まりだった。「この一種透明な苦しみの性質は私が自分自身に説明してきかそうにも、類例のない難解なものだった(三島由紀夫『仮面の告白』)」もうおしまいだ、もうおしまいだ、と「私」が呟くまでの、この数行に籠められた、極寒の高揚が、『MasqueraDead』へと受け継がれ、キミがオーミへと投げかける、情のちからが、それそのものが生き物のちからと重量とを得、情の勢いに身を委ねても、それが、「愛情」にも、まして「幸福」にも繋がらす、苛立たしさだけがこみあがり、幸福をはねのけ、「快楽」を追求する、悲劇的なものに重厚な手触りを求めていく姿が、執拗な反復をえんえんと繰返し、能楽をみているような、反復の積み重ねにやがてオーミがぶちぎれる。調和であり文体でもある、スマートフォンの画面が、ぱっくりと傷をひろげて絶叫する。オーミは「近江」だったころの暴君ぶりを、片時もわすれていなかった。

こもだまりさんの、オーミを演じきった、ききわけの良さに着地しない、「死刑囚にして死刑執行人」、殉教する聖セバスチャンの舞踏が、つめたい円環をえがいて、暗転、幕。





「オーミ」と「キミ」は今回、適役を得て舞台上に現れた。
ただ個人的には、「沈鬱な調和をえがいた静かなたたずまい工藝品のようなスマートさでできた仮面の箱のふたで封じられた、攻撃し、制圧し、奪って、破壊する、ほんとうの美」の、封印を解かれた暴れ様というものにはまだ、物足りなかった。再度の上演に出遭う事がある時には、ここにも大いに期待したい。



『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレまでのしばらくの間、頭の風通しをよくしたいので、空気を吸いに、地上へあがって、江古田駅前を散歩した。




*つづく*→ https://lecorsaire.exblog.jp/27156287/


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by lecorsaire | 2018-10-04 18:05 | 公演

リチャード三世(芸術集団れんこんきすた 2018年4月20日 マチネ)


※このブログは、執筆者のtwitterの以下のツイートに沿って書かれている。
https://twitter.com/Guardia_nobile/status/987294455760695302


まずまじめに書いておきたいのは、この感想ブログは、20日のマチネの印象しかカヴァーできてないという事。
そして今回観た、芸術集団れんこんきすた版『リチャード三世』が(原作:ウィリアム・シェイクスピア、脚本および演出:奥村千里)、傑作だったのか駄作だったのか、そんなことはどうでだっていいという事。そっちを期待している方はどうぞ、お読みになるをやめてもらって結構です。




観終わった直後は、えらく昂揚した。重厚で、躍動感にみちあふれた美しさに取り巻かれ、熱に浮かされて、役者たちと会話をたのしみ、会場をあとにした。熱に浮かされてしまった分、かえって言いきれないこともあった。それを今回、このブログに書いていきたい。



公演台本は、原作を凌駕する箇所をいくつもそなえ、ひたすらに、観る側により多くを要求した。そして、演出する側にも、演じる側の役者たちにも(「役者」と言うのは舞台に立つ俳優だけでなく、舞台の裏方に至るまで公演にかかわったすべてのメンバーも含めて)、トコトンまで、要求しつづけることをやめなかったに違いない。


twitterで、公演の役者紹介を発するツイートを読んだらリチャード三世の俳優の役ぶりを「怪演」と紹介していたことには疑問を感じた。欲望を叶えるため貪るためにもっともよく働く知恵を存分に羽搏かせるエゴイスト、「お前は、リチャード。」呼びかけられる私やあなたを、金正恩やドナルド・トランプを演じる役者には、怪人の仮面をかぶせてはいけないのだ。
舞台上で気になったのは、リチャード三世以下、セリフ回しにひらべったさを感じる箇所に時折遭遇し、2回ほどあくびを噛み殺した事。セリフの表情づけについて、舞台をみながら去年の11月にやった朗読劇で、クラシックの、演奏時間が長めで、表情づけがとても上手な曲のCDをいろいろ聴いてきたことが、朗読の表情づくりで大いにたすけになったことを思いだしていた。ただ、一番最初のリチャードの長ゼリフのひらべったさに味気無さをあじわったのだが、それが逆に、どす黒い黒髪がスライムの臭気とともにのたうちまわるような嫌らしさに、クラシック劇の絵姿を脱する幅と弾力をそなえる、説得力をあたえていた。





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公演が始まる前の4月18日の「よい歯の日」に、リチャード三世の遺骨の鑑定の決め手になったのが頭蓋骨の歯だったことをツイートしたのだが、



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いざ観に行った舞台で、冒頭のナレーションにリチャード三世の遺骸発見が、高らかに謳われていたではないか。



開演まえの舞台周囲を、黒いフードをかぶった何者かがうろついていて、開幕とともにあらわれる、やはり同じように黒いフードをかぶった登場人物たち。40人を超える原作から、ざっと刈り込まれた役が合計13人。リチャードの遺体を取り囲む、黒く激しい絵のようなオープニングが暴力的に目にやきついている。



オープニングで全員あらわれると、黒いフードをぬぎすて、リチャードの遺体をのせた舞台のうしろに並んだ椅子に、みんな一列にすわりこむ。そして、リチャードの遺体にむけて、そして左右の、対立する人物にむけて、さんざんな文句を言い合うのだ。リチャードが生きていたら、「おいおい、お前たちがそれを言うのか?」と途方に暮れるような。リチャード三世の悪事をのこらず筆記し本にまとめたイーリー司教が、主宰になって、劇は進展していく。時には聖域の守護者となって。


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ばら戦争を舞台にした、シェイクスピアの『ヘンリー六世』三部作とそれに続く『リチャード三世』が、ギリシャ古典劇のオレステイア三部作と似通ってみえた。どちらも大家族のあいだでの憎悪と復讐心が流血のうえに流血をぬりかさねる残酷絵図の大画廊を展開し、神眼的な裁きが終結をつける。舞台のクライマックス、リチャードの遺体を取り囲む黒く激しいオープニングがまた戻ってきて、死霊になった登場人物とともに、生霊と化した者たちもがいっしょになって、リチャード三世に流血のやいばをくらわせる。今と言う時代に(とりわけ我が国において)リチャード三世を舞台化するために、キリスト教的な性悪説だけでなく、人を殺すことに正義しか信じない、ギリシャ古典のオレステイア三部作の源流になった性善説のかがやかしさが暴力的に照り返り、性悪説の泥沼の底からたちのぼる瘴気に息をのむような輪郭をあたえていた。


脚本は、ひじょうにパワフルで、リチャードの危険さをより強く炙りだし、シェイクスピアの原作を凌駕する部分にも富んだ、分厚く、躍動に充ちた、うつくしい舞台のかずかずを展開させた。
セリフはじつにに生き生きと書かれ、シェイクスピアの未発表原稿のセリフかと錯覚するような流麗なセリフがつぎからつぎに登場した。『リチャード三世』につながる、『ヘンリー六世』三部作からつづくランカスター家との対立、ヘンリー六世(ランカスター家)の未亡人マーガレットにむけて、彼女がヨーク公リチャードに紙でつくった王冠をかぶせて殺した『ヘンリー六世』の場面も、ヨーク公夫人(リチャード三世の母親)にしゃべらせていた。
ヨーク公夫人の、重い鉄板がどんどんからだにのしかかってくる役どころには観ていて気がはりさせそうだった。





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そうなのだ、原作に出てこない、新たにつくられた場面のなかでも、少年王エドワード五世が、ロンドン塔で殺される場面はセリフも演出も、血肉的に冴えわたっていて、できるなら、あの場面のセリフをここに引用したくなるほど気に入った。



そしてもう一か所。エドワード五世につづき、またもリチャード三世の命令で暗殺をおこなった刑吏が、その背後から、マーガレットに誰何されるシーン。

マーガレット「お前はランカスター家のものか?それともヨーク家のものか?」
刑吏「(百銭練磨的な小声で)ヨークです」
私が座っていた席(三列目の中央)から見えるふたりの姿は、「刑吏も王の従者の一員である」という中世ヨーロッパの格言を刑吏にふきこみ、彼に語りかける、四面楚歌を絵に描いたマーガレットの孤高の誇り高さが、これも可能なら全文引用したくなるようなマーガレットのセリフとともに屹立させていた。





バッキンガム公の、リチャード三世即位を宣告する高らかな演技がいい。水際立つ、という言葉がもっともふさわしい役者っぷり。バッキンガム公は強欲だが、私利私欲の人とも言い切れない。骨の髄まで宮廷人で、尊大な理想主義者ではなくディーラー。しかしディーラーとして、大きく張れる意欲には手が届かない。ここが彼のジークフリート的な急所だった。とはいえ宮廷をつつむ虚栄の海を、体をはって渡っている。彼の姿を、台本は原作よりリアルに描く。巨万の富をもたらすヘリフォード伯爵領をめぐるやりとりにエドワード四世もまきこみ、原作よりも説得力が増している。


エドワード四世がその妃のエリザベスの手を引いて大色欲を謳歌するシーンが露わになったとき(なんか、書き方が硬いなあ)、シェイクスピアの原作を強いて読んでくる必要はないのだと納得せずにいられなかった。もちろん読ん読んだで楽しみがひろがる仕掛けには欠かないのだが、エドワード四世と、妃様エリザベスにはずぶとく壮健的な欲望(やはり、硬いw)が、うねりをあげていた。
エドワード四世の衣裳がすごい。王室の動物園で飼育される極楽鳥が羽根を広げたような・・・・そして妃エリザベス様、衣裳以上にゴージャスな胸元。
衣裳はいくら褒めても褒めたりなかった。アスリートのようなヘイスティングス卿の衣裳が、ライトに照らされて精緻な文様の微細な綾までうかびあがるほど光沢を放つのが目を射た瞬間、だれの衣裳も目が離せなくなった。



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原作にも出てくる名場面も善戦していた。リチャードがアン夫人を籠絡する、あのあまりにも大事なシーンには裏切られなかった。このシーンはふたりの息がピッタリあっていた。
クラレンス公も期待たがわず、ワインで溺死してくれた。このシーンは面白かった。クラレンスは舞台上で、ワイン樽のなかに沈められるではなく、リチャードがもちこんだ漏斗の、口径がひろがっている部分に顔をめりこまさせる。あたかもワイン樽の中身を漏斗でクラレンスの口にそそぎこむ刑死をイメージさせるかのように、クラレンスを溺死させる。そしてリチャードが退場したあと、クラレンスは亡霊になって立ち上がる。うまい。終演後、クラレンス公の衣裳を間近でみせていただいたが、目で測った浮き織がぶあつい。これは歌舞伎か?っていう位。




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死霊と、そして生霊がいっしょになって、リチャード三世に流血のやいばをくらわせるシーンで、最後にやいばをつきたてる、原作では名前しかでてこない王妃エリザベス(妃エリザベスのむすめ)が、
役者になって舞台にでてきたのにいまいち影が濃くないなあと思っていたその姿が、
刑吏の黒いフードをぬぎすてた、金髪の野獣、「もうひとりのリチャード三世」とともに舞台のラストをかざり、
これまでに幾度も、その美味を味わってきた、絵画的な名場面のギャラリーの最後の一枚をみるような、性善説も性悪説もひとつのながれのなかで勁くとけあう輝かしさで、わしづかみにしてきた。






この公演は、twitterをやってなければ絶対見逃していたはずなので、
twitterのフォロワーとのつながりに、ただただ感謝したい。


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by lecorsaire | 2018-04-23 20:15 | 公演

私はどのようにして「死のゆび」を作詞したか

今回のブログは、2017年12月18日に私が発した以下のツイートに対応する形で書きました。
https://twitter.com/guardia_nobile/status/942762972371230721




永井幽蘭さんから、あたらしい曲の作詞を依頼されたのが2015年の5月ごろでした。
小説を中心にこれまで書いてきた、文藝の筆を、舞台劇の脚本や朗読詩などにおよぼす度に、
思いもかけない悪戦苦闘への直面をくりかえしてまいりましたが、
今回もやはり同じで、作詞の苦行が、これほどのものなのかと思い知る事になりました。


「死のゆび」を書き始めたときに、私の念頭にあったのは 『たそがれの寝室』 という、日夏耿之介が書いた耽美的な物語詩でした。
『たそがれの寝室』 は、日夏耿之介がもっとも名をしらしめたエドガー・ポオの長篇詩『大鴉』の翻訳などといったゴシック奇譚の論客として名をなす以前に、 同人誌 『假面』 で発表した初めての詩作で、『大鴉』の、城砦窓から視線をなげかけるような鬱屈さよりも、ずっと感覚的な、淫靡にせまるほどの官能と耽美を、薔薇窓にほおずりするがごとく追い求め、イタリアの耽美詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオを 「官能の理想主義者」 として仰いだ若き日夏の詩の筆が 「視覚と聴覚の錯綜美」 の一歩をしるし、シアトリカルな絢爛さと、黙示録じみた性的虐殺、けだるい狂恋が渦を巻く、日本人が書いた最もみだらでみやびな詩になりおおせています。 
「死のゆび」 に、淫靡さがみなぎる箱庭かドールハウスの沈鬱な豪華さをふうじこめることができるとしたら、日夏か、そしてダンヌンツィオの詩の仮面を借りてこなければなりませんでした。
もちろん、借りてきたというか、盗んできた仮面はこれだけではありません。アリババの宝物洞窟からひっぱりだしてきたのは、永井荷風の訳詩集 『珊瑚集』、日夏の弟子の仏文学者・斎藤磯雄が翻訳した豪華な訳詩のかずかず。
歌人・塚本邦雄の第五歌集 『緑色研究』 を繙く時には、おおいに渇を癒されました。塚本は甘美さをあらわすのに 「苦い」 という反対語を使う事で甘さを増大させる効果をねらいました。「死のゆび」 のなかで”媚薬は苦く”とあるのは、たぶん『緑色研究』収録の、<ワルキューレにがき油のごとく滿ち馬はその鬣より死せり>がひらめいた折に筆が勢いよく走ったのかも知れません。
当然ながらこの時点で既に私は、創作苦の渦のなかで七転八倒しておりました。



ですが、まだこの時点で私が書いていたのは「ただの詩」で、
音楽にのって歌われる「歌詞」にはなっていなかったのです。


ここで一旦、筆がとまってしまったんです。
「さあいったいどうやって、詩のしっぽに火をつけようか」
歌詞を書き上げるという創作苦の、本当の苦しみがのしかかってきたんです。


おそらく、この時の苦しみの半分かそれ以上は、 「意地」 でした。恥かしいものです。その意地が、さらなる苦しみを生み、そうしてさらなる意地が湧いて出ての繰り返しに苛まされるようになったわけです。幽蘭さんが作詞を依頼してくれたことを最初は念頭に置いていたのにそれをだんだんと脇に追いやって(幽蘭さんすみません)、デカダンの詩歌や、淫靡や媚薬などとはおよそ対極をなす最も遠いところにいる何ものかに出遭えば、その遠さが逆に起爆剤や、発火力をさずけてくれるはずだと信じるようになり、そのあげくに出会ったのが、寺山修司が作詞した 「あしたのジョー」 のテーマだったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=lHgKu5o0xEg


「これだ!!!!」点と点が、一本の線になって繋がる暴虐的な勢いが理想的爆発力の導火線になってひらめきました。
寺山修司は天才だ。異形の造形力に溜息しか出ない。
やはり一番の歌詞が、壮絶さでとびぬけている。
歌手の美童イサオは、・・・・(ごめんなさいボケさせていただきます)
「だけど~~♪」の次にくる歌詞を忘れてしまい(!)、「ルルルル~♪、ルルル~ルル~ルルル~♪」で歌い通してしまった。
一行ごとに、尋常じゃないエネルギーがこもっていて、
一行ごとに、燃焼しなければ歌えない。
これほどの歌詞に、はじめてとりくまなければいけない歌手の心情とは、どれほどのものだったのだろうか。




タイトルの 「死のゆび」 は、「あしたのジョー」 をyoutubeで流しながら歌詞を練っていくうちに、自然とうまれてきたのだと思います。


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いうまでもなく、この時点での執筆がもっとも苛烈をきわめました。
なんで歌詞って、こんなに短くしなきゃいけないんだろう?などと、未曽有の根源論に喧嘩を売るような怒りをこみあげながら、毎晩のように、未完成の歌詞を書き途中のノートを閉じるたびに、溜息をもらし続けました。
書き上げた歌詞をお送りするときに、「もうこれ以上書けません」なんて言った記憶がある。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう歌詞に、作曲をして、はじめてとりくまなければいけない歌手の心情とは、どれほどのものだったのだろうか?




※「死のゆび」が初披露された2015年7月17日のライブ
http://lecorsaire.exblog.jp/21957947/








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by lecorsaire | 2017-12-26 17:38 | 公演

「贋作マッチ売りの少女」 東京公演<漆黒>(17日)、あるいは<白夜>(14日)との交差点



「贋作マッチ売りの少女」 東京公演<白夜>(14日)に続き、
http://lecorsaire.exblog.jp/26236229/


17日は東京公演<漆黒>を観た。配役を<白夜>から完全に入れ替えた<漆黒>は栃木公演で観た演者ばかりで構成され、東京公演ではあっても、栃木公演の続きが夢の尾っぽを引いて、冷たく、そして熱っぽく、のた打ち回っている。





”情熱の画家” 贋作家ヴァン・ゴッホ: 
町田彩香(栃木公演では”人食い”ソニー・ビーン)

”切り裂き”ポール・ゴーギャン またの名をポール・ザ・リッパー: 
恩田純也(栃木公演では霊薬の精製法を知る男 修道士デストレ)

”劇作家演出家俳優でもあり絵描きと肩書きだらけ” 狂人アントナン・アルトー: 
野坂亜沙美(栃木公演では”錬金術師”エリファス)

”サナトリウム医院長”医師レイ: 
小堀佳恵(栃木公演では”世話焼き娼婦”アニー)

”ヴァン・ゴッホの義弟”画商ジオ: 
Cacao(栃木公演では”サナトリウムの長”医師レイ)

”霧の都の怪人??? 看護師??? ジャック・ファントム: 
菊池晴美(栃木公演では”じゃじゃ馬娼婦”キャサリン)

”看護師”シャーロック: 
丸井裕也(栃木公演では”麻薬中毒”シャーロック)




<漆黒>と、そして<白夜>をみてわかった、栃木公演と東京公演の決定的な違いは・・・・・
まず第一に、<白夜>と<漆黒>それぞれで ”ジオ様” が降臨した事。
兄ゴッホに、愛憎をむきだしでぎらつかせ、幻想都市ロンドンの欲望を贋作でみたす<白夜>コイズミショウタ”ジオ様”と、<漆黒>Cacao”ジオ様”が、黒衣で闊歩する。
twitterでは狂喜乱舞が毎回TLに押し寄せた。



全篇の舞台が精神病院の隔離病棟なのは<白夜>と同じで、舞台のながれも<白夜>と同じ。
しかしながら・・・・・
<白夜>14日公演が、精神医院の最上階20階から最下層B10くらいを部屋ごとエレベーターにして上がったり下がったりを繰り返してたとするなら(そうなんです、<白夜>の常盤ジャック・ファントムが声色をくるくる変化させるのを見ているうちにエレベーターガールを想像せずにいられなかったOMG)、
<漆黒>は、ロンドン塔が現役の監獄要塞だったころの地下牢が地下にいすわったまま動こうとせず、栓をぬかずに300年くらいたまったままの黒い空気を、マッチの炎のまわりに巻き付けていた。



<漆黒>のファーストシーン、本当に怖かった。地下特有のテンションの昂ぶりがダイレクトにせまってきたのか、心拍数が上ったというか、動悸が高まってきて、ええっ、もしかして観ている最中にオレひっくりかえったらどうしよう??? と冗談ではなく本気で心配になった。
切り裂きジャック以上にぶっそうなシャーロック、医院長レイ(サナトリウムに患者として入ったらある日叛乱をおこして病院を乗っ取り、頭のキレ味自慢をギロチン博士と張り合いたがっている)、そして医院の看護師でロンドンの悪霊ジャック・ファントムがブラックジャック(黒革の棍棒)をふりまわして、黒いボールギャグ(口枷)を嵌められたポール・ゴーギャンを威嚇する。栃木公演を噛みしめた歯並びが、<漆黒>の、<白夜>の時に匹敵する熱気もろともブラックジャックの殴打をくらい、歯並びがぶち折られて、あらわになった神経に金属のメスをさしこむとグリグリっとひっかきまわす。
メスの柄には、源氏名をかかげて娼館で客をとるローマ皇帝の妃アグリッピナ、メッサリーナ、ポッペアの横顔が刻まれている。



精神医院を劇場にかえる小堀レイ、菊池ジャック、そして丸井シャーロックのオネエ声が、東京公演に”幻想音楽劇の幻想”を出現させる。
東京公演と栃木公演との決定的違いは第二に、
栃木公演が、中心がどこにも無い、或は中心が至る所にある幻想絵画なら、
東京公演は、ロンドンの中心がたったひとつに固定され、まん真ん中から芝居と、歌のまぼろしがとめどなくあふれかえる幻想オペラだ。
栃木公演で観た娼館の娼婦3人がふたたび現れ、さらにジャックの幻術に呼ばれて・・・・・栃木で観た、娼館長フランシスが!





「マッチはいりませんかぁ」
マッチ売りの少女アルルを栃木と東京(白夜)で、
大島朋恵{マッチ売りの少女/アルトー}から 
野坂亜沙美{アルトー/マッチ売りの少女}へ受け渡されるのを目撃した瞬間、『贋作マッチ売りの少女」の錯綜する進行が歯ぐるま仕掛けを回転させる。
錬金術師(演出家)で絶対的中心:第五元素の探求者(劇作家)が、
町田ヴァン・ゴッホと、恩田ポール・ゴーギャンとともに「死のゆび」のダンスを踊る場面が、<白夜>14日のそれと肉迫する。
クライマックスで、アルトーがセリフを早口で次々に唱えると、
『贋作マッチ売りの少女』のポスターを描きあげる(画家)幻像をむすび、マッチをつまんだ手が、「Hand of Glory 栄光の手」だということを確信できた。 




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「?」

 ??????・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと待て。

このブログ、書き始めからずっーーと、舞台を観た感想じゃなくて、
言語化された「印象」しか伝えていないぞ。

まあいいか。
感想は、もう大勢の方々が、いい文を書いてくださってるわけだし、これからも書いたり伝わったりするだろうから。



麻薬中毒探偵シャーロックが、アルトーから黒光りする麻薬を地下経由で入手する(だんだんと居直って来たぞ)。
目的のためなら手段をえらばない狂った探偵シャーロックのオネエ声は、アルトーの著作に登場する女娼帝、
アナーキストの戴冠姿、ヘリオガバルスの姿をとったホムンクルスだ(たぶん)。




うーーーん、
やっぱり、ブログがこうも書けないのって、
twitterで「贋作マッチロス」だと書いていた方がいたけど、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・

オレもそうだ。













<漆黒>を観てて、涙がこみあげてきて仕方が無かった。


「死のゆび」のダンスで、自身をモノクロームの限界点にまで削ぎ落とした町田ヴァンと恩田ゴーギャンが、表面を火であぶった匕首でからみあう様に息が続かなかった。ゴーギャンが、マッチ売りの少女をえがいたゴッホの絵を切り裂くと、愛の結晶を脳天までえぐられたゴッホが、天井が落ちてきそうな絶叫をふりしぼる。この場面は東京公演<漆黒>で一番強烈なシーンだった。

マッチ売りの少女が消えたロンドンを、ゴッホが半狂乱で走りまわる。涙がこみあげてきてやりきれなかった。



私の席からは数歩しかないところで、ヴァンの死人すがた(震えるほど美しかった)、クソ兄貴にすがりつくジオの背中が目にやきついて離れない。




東京公演の、客席の床と舞台とが同じ床の高さでつながった会場は栃木公演との決定的違い其の三で、
スタイル(仕様)なのではない。演者と客とが必死にたぐりよせる奇跡なのだ。



正直言わせてもらうと、東京の2公演どちらかあるいは2公演とも、栃木公演と比べたら出来はどうなのかなあ、「死のゆび」も歌わないみたいだし・・・などと意地の悪いことを、考えたりもした(大変失敬)。ところが2公演とも、何度となく客席から煽るのを忘れきって、ステージに呑み込まれてしまった。
東京公演ではヴァン=ゴーギャンの同志愛よりもヴァン=ジオの兄弟愛に中心が置かれているのかと、<白夜>と、<漆黒>を観終わった直後におもったのだが、
この舞台では、同志愛と、兄弟愛がうむ悲劇のどちらも、悲劇の地平線を超えて、何物にも穢し難い奇跡までたどりついてしまう。
演者たちが、力量以上の演技をみせたのを、舞台と同じ床の高さでつながった客席の床で、私もまた、力量以上の観客になることができた。
<白夜>14日を観た直後、麻宮ヴァンとコイズミ・ジオ様が燃焼しきっていて声もかけられず、「感動した」しか言えなかったのを思いだす。



栃木公演と、東京公演の<白夜>と<漆黒>全部に登場し、いちばんゆさぶられたセリフがある。
「なあ、この絵美しいだろ?彼女の笑顔が、ここにはあるんだ!」
来年の神奈川公演で、このセリフに出遭うことを楽しみにしている。




ああ・・・・・
こうして書いてると、常盤ヴァンとコイズミ・ジオ様も観たかったし、小林機械さんのアルトーも観たかった。











※使用画像は、【贋作マッチ売りの少女】東京公演のサイトから
http://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/stage/fakematchgirl/tokyo/


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by lecorsaire | 2017-12-20 19:33 | 公演

『緋哭』ーひのさけび

『緋哭』ーひのさけび
舞踏:吉本大輔
墨刻:原賢翏
音楽:関口大
12月9(土)、10日(日) Open 19:00 Start 19:30


東生田会館(イベントホールとかではない、ごく普通の多目的集会場)での吉本大輔舞踏公演 『百合懐胎す』(2011年12月1日〜7日)から6年が経ち、
12月10日午后6時前、神奈川の向ヶ丘遊園駅南口に、6年ぶりに降り立った。



東生田会館の内部は、壁も床も黒布でおおいつくされていた。
天井をおおう紗幕は暖房の熱風をあびてゆらめく、喪服のヴェールが吐息を吸うように。
黒い床のうえに、書道でつかう長い文鎮を、15個置いた、書道半紙の大判がでかでかと敷きつめられ、緋色のロープが、天蓋ベッドの四本の柱みたいに天井から吊り下がっている。


大輔さんの舞踏だけではなく、
未知の領域が二つ、悪夢の海から顔を出して睨みつけてきた。

原賢翏の墨刻が、黒い蛇のうねりになり、蛇の舌の緋色となり、ステージの白い紙に刻まれていく。
墨の文字は、ステージまで這って行ってなめたくなるほど、凄まじい。
ドロドロに揺れた空気のなかで阿片窟が浮き沈みし、
椅子からころげおちそうになる。


緋色の寝台から・・・・・・
関口大の10ホールズハープが響き渡る。
気怠いねいろを虹色に染めて、輝きの尾をたなびかせて。
天蓋つきの寝台が、あまりにも美しい。

美しさが、東生田会館の座敷霊が、吉本大輔の舞踏のそこなしの白さで寝台にまといつき
天蓋からは、吉本大輔が持ち帰った冬空のまきちらした風のおちばが、関口大の頭上へふりそそぐ。
禁色の雨が、・・・・・・・・・・・・・・・・ダナエーの心を奪う。


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ダナエー・・・・・ギリシア神話に登場するアルゴス王の娘。
アルゴスの王はダナエーをブロンズの部屋に閉じ込め、男が近づかないようにしたのだが、有る時ダナエーの身体に、まばゆい黄金の雨がふりそそぐ。
黄金の雨に変身したゼウスとの交合によって、英雄ペルセウスがうまれた。

黄金の滴が、黒く赤く、ステージにしたたる。兵士達を美しい屍にする血、司祭たちがおこなう儀式の最高潮を演出する血が。


吉本大輔が、みずからの肉体の美しさにいらだったのか血のにおいを嗅ぎ取ったのか、
ペルセウス彫刻のような美を破壊する狂態を炸裂させるーーーーーーー凧糸にした、緋色の布紐をひっつかみ、永遠のような長さを躍動させ、
ステージ四方の客席へ突進し、からみつき、客の足やら、上半身やら、私の首に、ひもが巻きつけられ、
客の脳内にもぐりこんで、こねくりまわしてくる舞踏が、ひとしきり中身をくいあらすと、外へ這い出て、
ペルセウスに倒されたメドゥーサの打ち首になると、
ステージを這い、墨文字にほおずりし、中心の寝台で暴虐鎮座すると
ステージ四方から伸びる緋色の布紐たちを、遊惰でありながら緊迫させる。
ダナエーの、臍の緒のむれを。
メドゥーサの頭髪の蛇たちを。




音楽が、筆のいきおいが舞い止まぬ。







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by lecorsaire | 2017-12-12 19:10 | 公演

永井幽蘭さんのライブ(イベント『海底遺跡からの通信』 2015年7月17日)

ひだりのあしの、神経痛をのろいながら、吉祥寺の『曼荼羅』へ、永井幽蘭さんのライブを聴きに行った。


いたみが、嗅覚をとぎすます。吉祥寺にむかう電車に乗っていると、加齢臭の匂いに息がつぶれた。





地階のライブハウスの曼荼羅には、古く、あちこち傷をおび、まるで城砦の棺桶じみたグランドピアノがある。
4月26日のイベント『赤い星の終末』で、永井幽蘭さんが弾くのを聴いて以来、このピアノがすっかり気に入ってしまった。幽蘭さんが弾くライブのわきにいるお人形は、やはり、棺桶からおきあがってきたのだろうか。
今回ふたたび、曼荼羅のピアノで幽蘭さんが弾くのなら、いたいもかゆいもいってられなかった・・・・



『赤い星の終末』以上の、緊張感のはりつめたライブだった。
いや、ライブというよりも、一曲一曲の、音楽がうまれてくる瞬間にたちあうような、とても強烈な体験だった。海の豊饒をもとめていたこころが、帆船から転落して、そのまま漂着した場所に、どこまでも、どこまでもひろがる、水没遺跡の美景につつみこまれることができた。
ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』に登場した、貝のなかの、凄愴なまでにうつくしい真珠のかがやきが、ピアノの鍵盤にはじけるのが見えた。


ライブメニュー
1:水面の音楽
2:道化師の犯罪理由(作詞:華円なびすこ)
3:月の傀儡(作詞:華円なびすこ)
4、かげろう
5、キャンディーストライプ
6、サーペンティナ(作詞:チェリー木下)
7、死のゆび(作詞:鏡谷眞一)
8、赤い星の終末
9、?




新しい星々の誕生をあじわった。その数は、・・・・・4つだろうか。
そのなかの1つ、ねばりつく翳がさした、妖しい星の誕生に、こころがどよめいた。
今回のライブで、私が生まれてはじめて書いた、歌詞を、幽蘭さんが曲にしてくれた。


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イベントの冊子に、作詞者として、私の経歴を載せてもらった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



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ひとつだけ違うんだよなあw 私は、「役者」ではあっても、「俳優」ではありません。



「海底遺跡からの通信」facebookページ




2016.4.28記:このブログを書いた頃は坐骨神経痛のくるしみを抱えており、会場に行くのもやっとだったので、イベントの全体印象を書き表すことができなかった。幽蘭さんのライブが終った後、もはや激痛に耐えられず中途退場したので、ライブの次に控えていた、『赤い星の終末』にも出演した強烈な独り舞台を観ることができなかったのが、残念で仕方なかった。リンクを張ったり、写真を貼り変えるにあたって読み返すと、当時の苦しみを、今は懐かしくふりかえることができる。
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by lecorsaire | 2015-07-18 19:15 | 公演

"東方の三賢人"

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きのうのクリスマスは、版画家の渡辺千尋(故人。東京に生まれ、長崎に育った。1995年に長崎県南島原市有家町からの依頼で16世紀末頃の銅版画とされる「セビリアの聖母」の復刻をおこなう)の回顧展がひらかれている、練馬区立美術館で、"東方の三賢人"、吉本大輔・高橋理通子・石川慶が、舞踏のゲリラ公演を毎度の如くやらかすという情報を仕入れたので、目撃者、体験者になりに行ってきた。



舞踏の体験者になり、時間をとめる奇蹟を起こす事ができた者たちが、舞踏に変容した広間を、あふれる涙をふりしぼって生んだ湿り気で満たした。



明かり取りのガラスが嵌った、天井のはるかな高さにむかって手をさしのべる、磔刑像のような吉本大輔。見上げると柱頭彫刻のぶらさがり天使像のような、石川慶が、ガラスのつばさを温めている。
聖母の名で島原を闊歩する伴天連の太夫のような高橋理通子が、残像が目に染みる豪奢なキモノを纏って、ゆっくりとあるいてくる。
練馬区立美術館の、一階広間を、天井まで、白塗りに染まった舞踏が、銀粉がまじったような、人種によっては猛毒になりうる、白塗りの芳香で占領するのを味わった。
とろけるようにゆっくり、時間が凍りついた。







ずっとずっと、このまま、時間がとまったっきり、動いてほしくない・・・・・・・と祈りつづけて、広場の石の床にへたり込んでいた。
舞踏に吹き降ろす、天井からのガラスの明かりが讃美歌を纏ってひろがっていく。



光の中心で、うたにつつまれ、舞踏が、三賢人が、神の祝福を顕す父と子と聖霊が、へどろの海面に浮かぶ大罪の船団を海水もろとも鯨飲する勢いの、火刑台をそびやかす。





これが、ことしの贈り物か。
あるいは、火の刑を宣告する金文字が。



お受けした。
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by lecorsaire | 2013-12-26 16:52 | 公演

『百合懐胎す』を3度みて・・・

舞踏ー天空揺藍主催





吉本大輔舞踏公演 『百合懐胎す』



12月1日(木)〜7日(水) 開場19:00 開演19:30







同じ公演を3回観た感想を書く。

3回それぞれに、まったく違った奇蹟をまさぐるとる・・・・奪胎する事ができた。











一度目





夜につつまれた、会場の、東生田会館に入るなりキモをつぶした。あかりが深寒と灯る館内の会場に、床がみえないほど枯葉が敷き詰められている。壁は鉢植えの緑葉植物で熱帯的に覆い尽くされて匂いを発散している。館内に夜の庭を持ち込んでしまったような錯覚に捕らわれると舞踏はもう始まっているのとおなじになる。大輔さんは開演まえから枯葉の中央でポンペイの遺跡の石膏人体のように横たわっている。

闇明かりと匂いと枯葉の奥に、それはまるで玉座のように、便器が鎮座している。「便所のほうがえらい公園」が、舞踏をつつみこんでいた。

幽かに聴こえるマリア・カラスのアリアが「 泣け、 泣け、わが目」と歌声をひきしぼる。
客はまるで公園の枯葉の地べたに座布団を敷いて座り込むわけだ。

一旦そとへ出たら、中のにおいも外にもって出てしまい、自分の匂いの周囲が、あまりにも無臭なので可笑しかった。

マリア・カラスのアリアから、鴉(カラス)の鳴き声の音響へと変わる。白骨いろの照明をあびて、白塗りの舞踏身体が、ひややかにゆたかなおっぱいのふくらみにみえてくる。すると、





・・・・・・・・・・・・!!! 





舞踏が、横たわったまま、息がつぶれるほどの円周を描いて、途方もなく巨大化したのだ。

「何と巨大なのだろう」1日目の舞踏の印象はこれだった。

吉本大輔の舞踏が、開演と同時に、今まで見たことも無いほど巨大になった。

舞踏のつくりだす空気も、今回のは特別に濃い目で、耐え切れず咳こむのが、あちこちから聞える。

観ている俺の体の中で、一秒ごとに濃い味付けをほどこすように秒針の刻む音が痛烈な時計をそびやかした舞踏の時間がうごいてまわる。

「舞踏とは、異空間をつくりだすことだ」というならば、この日のこれこそまさに舞踏の神髄だ。

舞踏の巨大さの周囲に、円周を巨きく張り巡らせ、円にのみこまる者を圧倒し、どんどんと縮めていく。俺の身体が・・・・・・



俺のからだが、みるみると無様に縮まっていく!ある者たちは、縮む姿がますます美しくなっていくのに。







舞踏が、厳寒の水底にねむった宝箱のふたをあけ便器に戴冠服を突っ込みはじめた時、

ようやっと美の恍惚に触れられてきた。水のながれる豪奢、戴冠服で用便・・・・・・

舞踏は、能楽をはるかに超える時空変転で、直線姿勢を枯葉地面にけちらし、腹筋を鼓動させる。

際限なく、巨大化をやめようとしない。

枯葉がちいさい点になってうごめく難破船をもてあそぶ黒い波しぶきを波濤させ、音楽が、 ショスタコーヴィチのワルツが円舞を鼓動させる。気が付いてみると、舞踏が洋式べんじょの女神さまのやどる便器を人形を相手のようにかかえて、ワルツを踊っていた。













2度目





マリア・カラスのアリアから、鴉(カラス)の鳴き声の音響へと変わる。白塗りの舞踏身体が、・・・・・・・

身体が、産道の奥のうごめきを舞踏させる。産道の中身が、帝王切開で、暗闇といっしょに、ひっぱられて出てきた。暗闇は、月と星空でできて、館の空をおおいつくし、館は舞踏のあいだ、宮殿になる。



月夜の、百合宮殿の純白のレリーフが、残像のうごきにも似た舞踏を、彫刻をおおう細かい破片ごと輝かせた。



砂金が舞い上がって、静かに歌っている。舞踏とは、なんと美しいのだろう。

観ているうちに、だんだん自分が、舞踏と同じくらい大きくなっていく。客席からひろがるジャスパーの沙漠を三本指の裸足で歩いた。







「きさまのそんな御喋りなど、その舌とともに呪われるがいい。このマグダフ様は赤子の時、おふくろさまが腹を切り裂いて、きさまよりもずっと帝王らしく生まれてきたんだ」(『マクベス』最終幕。マグダフがマクベスを地獄に落とす)







舞踏の端からはしまで、言葉は過剰なうるおいを蒸発させて、周囲の枯葉いちまいいちまいに、喜ばしい死のように吸い込まれていく。

いままで見た、どんな舞踏よりも美しい時間が、この日の夜にはあった。





ショスタコーヴィチのワルツが鳴り、
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フォンテーヌブロー派の沈鬱画の姉妹をダンスに誘うように便器を手にとり、

透徹が極みをつくした、その表面が玲瓏なまるで白磁の上等品であるような冷たい官能を煌めかせた舞踏を、会場のラストでえがきあげた。

妖しく蒼い零度の人工楽園でできた人工廃園の時間城に触れて、終いから始めまでずっとふるえつづけた。-----------暖房?公演中は、12月の館内ぜんぶスイッチを切っていた。

















3度目





帝王切開の執刀医たちが、客席をうめつくしている。もちろん、俺のポケットの中も怪しい手術メスでいっぱいだ。

その日は最終日。4回も5回もみている客から公演中の寒さを訴える声が続出したのだろう、入り口で、防寒の足しになればと真っ白いマスクが配られていた。客席は眼力のむれがうごめいている。ポケットの奥をギラギラまさぐっている。

鴉(カラス)の鳴き声の音響へと変わる前から、「泣け、 泣け、わが目」とマリア・カラスのアリアが、泣き声が切開される舞踏の腹の底からギャンギャン泣いてきこえてくる。 懐のメスは懐胎でも堕胎でもいいから、からだの中に刃をはしらせたがってみんなうずうずしてる。





白塗りの舞踏身体が、  ・・・・・・  身体が、産道の奥のうごめきを鳴動させる。産道の中身が、   最終日だけあってひときわ多い客の視線が集中した帝王切開で、   暗闇といっしょに、ひっぱられて出てきた。



絶叫の氷漬けが、





   カラスの嬌声とくちばしの群れの血まみれ惨歌をまとって、
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舞踏を      まるで、         夜会ドレスの裳裾をながく長く、    気が切れ裂くほどに長くひきずって・・・・・・ 

  







舞踏をつつみこむ、白塗りとおなじくらい底なしに白いマスクで口を覆い、饒舌を封じられた俺のからだが、舞踏の大きさと釣り合っていることを無量の心地で噛みしめる。まだ童貞の欲望を貪っていた頃に抱いてもらった娼婦から、背中がきれいで手があたたかいとしみじみ言われた事をハッと思いおこす。この夜みた舞踏の背中と、手の格調はかけがえもなく美しかった。

透みきった五感の静けさに染みとおってくるのは客席のあちこちの帝王切開医服のポケットから幽かに響く手術メスの唸り声。





枯葉のじゅうたんを敷きつめた娼館のへやの、歩む先には便器がまちうけ、頭上には、華奢な白いレースのパラソル。





(レースの傘は、娼婦のしたぎのレースの壮麗さと対流し、娼夫=舞踏女神は手の中の下着を、サラ・ベルナールさながらの神聖怪物のみぶりで枯葉へとほうりなげる。)(投げたあとも、その動きが三度くりかえされる。幻像=実像の下着パラソルが放り投げられる):当日の公演メモをそのまま書く。



(便座の、娼技に淫絶する「客」・・・・・便座の上にのっかって、男のクツが女のヒールにスパンキングされる。)

便座の周囲はまるで巨大肉食恐竜の、化石からもわかる足形の暴虐さが、はしりまわり、ころげまわり、男体と女体のぶつかりあいを轟かせて、法悦、法悦、嬌声、法悦、(万雷が一度におちる)、法悦、法悦。法悦、法悦法悦、法悦。閃光、法悦、(メスの切り傷が濛々と煙を噴く)、法悦、法悦。法悦、法悦法悦法悦法悦法悦法悦、法悦。炸裂、法悦。ゆり(百合)をたばねた鞭が叩かれ、花粉と葉粉が舞い散る。跳びはねる。「息苦しい!息苦しい!蒸風呂のなかのように。石盤の蠟は溶ける、書いた文字もみな消えてゆく。この百合の匂いよ!何たるこの百合の匂いよ!」ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ! ハレルヤ!!! 7日間の公演に耐え抜いた館の床の、どんなオペラハウスのステージもひざまづかせる程の壮麗で大胆なちからづよさの表面に執刀医たちのメスの群が一枚の板のはがねをよこたえて、舞踏の狂乱をうけとめていた。







舞踏のうえに、巨きな静寂が飛翔する。するうち完全な闇が、来た。







拍手。拍手・・・・・・・・・・・

七日間ぜんぶの公演が、ぜんぶ、おわった。・・・・・・・













さあ、マスクをはずそう。帝王切開の手術は終わっ・・・・・・・・・・・・

















「待った」











暗闇から、「ちょっと待った」声があがる。・・・・・・・・ん?声?、ちがう。これは、













・・・・・・・・・・・・・・・・・「!」











「白鳥の湖」の、四羽の白鳥の踊りのメロディーだ!!!





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客の目と鼻から下が、一人残らずマスクの白い白鳥の羽毛でうもれたステージを、内股でバレエが舞う。ステージと客席入り乱れての狂乱のるつぼ。









内股で、四元素が白鳥のすがたをとった錬金術の、いい匂いで円陣軌道をぐるぐるまわって共食いする四つの星の、その中心から写真をみるように水飛沫で飛び出た「第五元素」が、湖くらいに満ちた万物溶解錬金液の水面を火水土風の踊る四羽もろとも、しろい羽毛の水面を四重の同心円で、水脈を深くえぐり、マスクの上の鼻と目を羽毛の底に冷然とうちひろがる、渦をえがく中心(第五元素)の胎内へと、ひとりのこらずひきずりこんでいく。
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by lecorsaire | 2011-12-12 20:12 | 公演

百年時計

『次の公演のタイトルは・・・『百年時計』」その瞬間、絶対見ようと念じていた。高橋理通子さんは、公演にさきだつ『花狂ひ』で、エロスの巨塊をそびやかす桜を妖艶にねじふせる舞踏で、俺の神経を束ごとふきとばし、うごかない柱時計を両腕に抱きしめていたのだ。
柱時計に、吸いこまれてあのなかにはいりたい、なかにもぐりこんで、うごかないはずのじかんの、無垢なまでの淫蕩さをとけいごとうごかしてやりたいと猛念をかきたてた。


開演すると"Bercear d'space(天空揺籃)城 "、東生田の館は、漆黒に凍りついた時間の波でおおいつくされ、入りこんだものを惑わす心地にみちた、時計のなかだった。
俺は今、オルフェよりもスフィンクスよりも会うことを願い続けた時計のなかにいる、いるんだ! 深淵な緊張にもみほぐされてとまらない。

舞踏空間が、漆黒ごと鳴動する。ひびきわたる時限針のおとは、舞踏の呼吸として反響するのだ。今回俺はこの呼吸に、身を浸し過ぎて舞踏に囚われた。何度となく、りょうあしが立ち上がって一緒に踊りだそうとするのを両腕でとめてみせた。トンマな姿としか言いようがない! まるで、放射能の微量におびえるあまり軍隊用の防毒面を何重にもかぶった愚か者が、熟れた時間の城に充ちた毒の花を、失神手前まで近寄って、肉厚な襞の一枚いちまいに恍惚となっているようだった。
舞踏は流麗なすがたなど一片もない、きれいにつくりすぎる卑しさをかたっぱしから砕く、さながら巌・・・岩の塊まりが館の天井を喰いやぶって、ステージに落ちてくるのをみるようではないか。音楽はレコードの針の音にしかきこえない位ほどで、からだじゅう、心臓の下にひろがるはらわた、両腕の中のはらわた、両眼、両鼻、両ひざ、両キンタマ、両手両足の総ての爪の底のすべてのはらわたに、何百倍の大きさの岩石が、見る者を死に至らしめるほど美しい女像をレリーフ(脳の皺がすさまじい浮き彫りを踊る)をうかべて、時計の針だけが冷厳に轟く、タナトス・・・石の表面が宇宙の匂いに覆われた荘厳な石墓地を、死都の城塞、陶酔のピラミッドをつみあげた。




そして今回の公演において、もうひとつ大事な事を書いておく。宣伝美術:高淳嘉さんがデザインした公演のチラシのイラストとともに公演の当日を指折り数え、当日はイラストにも身を浸しながら、舞踏と一体になることができたのだ。


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舞踏空間の最中だが、「幽霊時計」と、つぶやく声がきこえた。客席のだれかが云ったのか、俺の体内のはらわたのいずれかから昇ってきた声なのか。
ステージの中心にむかって織りあげた舞像は
館が建って、百年たつとすみつくという幽霊なのだろうか。
館の少女は、
時計造りで爵財を成した家庭に育ち時計を知り尽くした絵師の手で、
時計じかけ人形のかおをえがく面相筆の滴りに吸いとられる。
あざわらうような、悦ぶような喚声。
時計の泡たまごでできた額縁に嵌められた肉体と、
キャンバスに乱舞する絵筆との交錯するにらみあい、からみあい。
肉体じゅうの神経と、
筆の毛ひとすじひとすじの先端に、
脂粉の甘き縹渺が灯る、
時限爆発の火薬のかがやきとともに。


「今度こそ本当に死ぬと思いました」公演が終わり、俺の言葉にみんな、呆れて笑っている。

ラストでステージ(客席と同じ高さの地面で水平につながっている)、
ステージの奥で鎖につながれた
まるで荘厳な時計の畸形獣であるような自転車を、
ステージまんなかに連れてきて、
ストッパーをかけると騎り、すごい目で・・・・
百年後の爆発をセットした時限爆弾のメーターを顔面にふたつ輝かせて、漕ぎはじめた!
十年、二十年、三十、六十、八十・・・百年目がけて疾走するふたつの車輪が
分針と秒針を猛回転し、
からくりの鐘の王女ごと総てをのみつくす不吉な円周をひろげ、
自転車の目の前の客席には、俺が座っていた!!!
いちばん危険そうな場所を独り占めしたら、
ほんとうに一番の危険が待っていた!
ストッパーが吹き飛んだら、お客がみんな逃げるあいだに
(お客さんの中に、岡本太郎美術館の館長さんがいた)
俺は時間を永久停止していたはずだ。 







おまけ:
公演まえに、東生田の興福寺の山道を歩こうと思ったら閉まってて・・鐘のそばに猫が一匹いたので行ったら、もう一匹現れ、もう一匹でてきて、さらにもう一匹あるいてきて、さらにまたもう一匹・・・多くないか?「ここ猫たくさんいるよ」おばちゃん登場。
おばちゃん「ここノラ猫が十二匹いるの。エサ代大変よ。昔はニ十匹いたんだから」
くろねこが一匹寄ってくる。「その子ひとなつっこいの。でもしがみついたら離れないわよ」・・・退散し、東生田会館へ。
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by lecorsaire | 2011-06-15 11:12 | 公演

「死すら大笑いする時がある!!」 

あの幸せが、まだまだずーーっと続いて欲しいくらい、今夜みた『天空揺籃』は強烈だった。
しかし、今回みたのが、あれが舞踏だったのか、遊びだったのか、美しき災い、あるいは諍いなのか、蝮のまぐわいだったのか淫蕩だったのか奇跡の罠だったのか、よくわからない。

理通子さんは、今週の金曜から3日間、ソロ公演を東生田で踊る。・・・マゾッホの女怪物語に登場しそうな公爵夫人が、下腹のなかに隠した淫蕩絵巻の叫喚に身をゆだねる。いっそ飛び掛かって、八つ裂きにでもされれば良かったのかも知れない。慶さんは半神半獣の不連続面が、地割れと地底からのマグマ噴出みたいに眩しい・・・・・かぶっていた帽子で蝶のように、捕獲されたくなった。



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新宿JAMに行くまえに、ブリューゲルの『死の勝利』を眺めていたのだが、観にいくと、じぶんの腹の底が、毒を投げ込まれた井戸の水をどんどんと、油絵具いろに変えていった。
『死の勝利』がハコのなかに出現したというよりも、絵の中に、自分たちが閉じ込められてしまった。絵のなかにいた。あちこちの場面の殺戮、交霊、ヴァニタス、桁外れの笑い、希求を、『天空揺籃』はハコの中にちぢめて濃縮してしまったのだ。
いわば水画面のそれまでを、客もろとも強烈なアブラ絵の具で捕らえ、客ひとりひとりの視線の足元を油でぬらし、たえず踊っていないとすべって転倒死する「舞踏病」にしてしまう。
視線の中心にも端すみずみにも、吉本大輔がローマ法王になった子を産み落とした娼婦の媚態のように舞う。

あまりの美しさに、何度も失神しそうになった。あのまま死んでも良かったくらいだった。



床に脱ぎ捨てられたヒールの片っぽを、盗んで帰りたくなった
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by lecorsaire | 2011-06-08 01:06 | 公演

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
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