人気ブログランキング | 話題のタグを見る

我れ若し女帝の密使なりせば

lecorsaire.exblog.jp ブログトップ

イト2019 2019年3月10日 悠日


この舞台が、舞台芸術創造機関SAIによって放たれた、
2038年問題や2011年の東日本大震災の記憶蓄電池であることは、観ていてよくよく伝わってきたんだが・・・・・・・
このblogでは、そうゆう事よりも舞台そのものの、ショックだとか、構築性の興味深さについて触れていきたい。




########☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ########




客入れの音楽が、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』第三幕の前奏曲のエンドレスで、
公演後にかかっていたのが同じくワーグナーのオペラ『ジークフリート』の"森のささやき"の、これまたエンドレス。どちらも非常に長いオペラだ。
『ローエングリン』からはスクラッチノイズも盛大に聴こえてきたのは、遠い過去と現在とが、ノイズで隔てられながらも、
確実につながっていることを示した姿なのかな#?



身ぐるみさらっていかれるうような酔いの深淵が生む#陶酔だけではなく、研ぎ過ぎた刃物の匕首をつきつけられているような#覚醒だけどもなく、
いわば両者の中間地点を漂っている感じで・・・・・・・・・・・・
最前列で観ていたのに、セリフはほとんど、「#暴虐的な酔い心地」に吸い取られて、頭に残らなかった。
舞台に身を浸しているうちに、上演時間が、そして会場の外の時間がどれだけ経ってるのか判らなくなってきて・・・・・・・・
ワーグナー狂の恋愛詩人の伝奇が原作のバレエのダンサーがスローモーションの視界に没入してピルエットを1,000回転して見える視野の中心に投げ込まれて、ものの見事に頭が混乱した。
舞台のうえで、演者たち全員が手にしている#台本は分厚くないのに・・・・・・・・。




これが・・・・・・・・・・・「#薄い本」の破壊力なのだろうか#? #こらやめろ
それとも・・・・・公演中はずっと、別次元へ放り込まれていたのか#?#?




いずれにせよ、公演が終わって時計を見たら、90分ちょっとしか経ってなかった事実には言葉を失った。
この、時間の永遠的な、時間の重層感覚は、いったい何だったんだろう#?#?#?


2019年から100年後の西暦2119年から、先生に引率されてやって来た修学旅行生たちが、『悠日』(イト2019の会場)の客席スペース前方を騒乱で満たし、乱闘を爆発させ、アミノト先生と、渋谷翼(敬称略。ではなくて役名。後述します)の説教で収束・・・・・するわけがなくて更に憤激を煽り立て、舞台開幕へとなだれ込む。
彼らにとって客は、100年前の、心ゆたかな幽霊にみえたのだろうか#? 最前列の席、#演者のすぐそばにいたから、「蕎麦って何#?」って言われてしまったり・・・・・・・・蕎麦は『悠日』の名物。




舞台にあがった演者たちは手に手に、#台本。

「イト2019」は、2019に辿り着く前に何度も公演があって、SAIの意欲的な展開によって、舞台だったり朗読だったりのイトを経ている。
3日間のうちの2日で造って、3日めに上演する「ワーク・イン・プログレス」版が今回2019年のイトなのだが、演者たちはみんな台本を持ったまま舞台のうえにあがっている。#台本#役者が、合わせ鏡みたいになって#演者たちを挟みこんでいる事に公演を観終ったその直後から薄々気がいくようになって、ならば、客達がみていたのは演者たちが造った、虚像だったということなのか#? あるいは・・・・・・芝居をみるつもりで客席にあつまった客の方が、観られる(#役者ではなく)存在だったという事なのか#? 


このblogの書き手はいわゆる「現象学」あたりにはまったく疎いので、そっちに詳しい方ならばより適格で、優美な理論をはじきだして納得するのだろうが、書き手はそうならずに、より屈曲なイマジネーションの迷宮を遊泳する愉しみへと行き着いたわけ。以下もそんな遊泳気分な感じで書いていきます。



そして公演を観ていて否が応でも肌につたわってきたのだが、あきらかにセリフが演者の体に入っていないので、対話で大きく「間」が空くのだ。


公演を観ながらテンションを煽ったこの「間」は一体何だったのか#?
2038年問題や2011年の東日本大震災の「記憶」#?
その記憶が、忘却へと追いやる狭い小ささの中に強制収容の様におしこめられ、
舞台の力で、「形」を得たのではないか#?#?##?#?


イト2019 2019年3月10日 悠日_d0242071_16072035.jpg

舞台の世界は、<SEKAI>セカイを女の子の形に生み出す。
<SEKAI>とは、まるでSAIのアナグラムのようではないか。
2011年、2020年の復興五輪を経て、2038年を迎えなければいけない世界が、
理屈をならべて造られ続ける無数の壁に、
セカイが易々と、感情のちからで、無数の橋をかけてくれる願いがこめられているに違いないではないか#? 








数多くの「#?」によって周囲を取り巻いてみせたのは、
このblogでカオスを因数分解してみせたいわけではないし、
そもそもイト2019にはカオスは全く無かった。このblogでカオスが暴走しているとしても。
イト2019にあるのは、
#イマジネーションをとことんまで要求して止まない程の、
ぶっころしたくなる程の、( #おいやめろ)挑発精神だ。

セカイに恋い焦がれ、携帯端末#?とともにいつも彼女と一緒のヒカルは、先の修学旅行生とおなじ高校の生徒で、学校に燦然と君臨する天才ゲーマーなのだが、
ゲームをやっているシーンはというと、これが一度もでてこない。
ヒカルはおそらく学校でも、学ランを着ずに年中、格闘技風ファッションで通してるに違いないので、
会場になった悠日の、まるでワーグナーがギリシャ古典劇場を念頭にドイツ都心からはるか遠距離に築いたバイロイト祝祭歌劇場にも似た威相に敬意を払う、
総合武芸場を舞台に繰り広げられる異種混交の、格ゲーか#?
いやまて、レザーのジャケットだったら、スパイでも金庫破りでも着てるだろう。
だったら・・・・・
革ジャンの普段着から武装メイドに着替えた女子高生たちが重火器を乱射しあう、
#薄い本が原作の百合ゲーか#? #ホントにやめろ
というより・・・・・・・・・・
2119年のゲームってそもそもどんななんだろう#?#?#?#?#?



唐突かもしれないが、「#ルービックキューブ」っぽいものをイメージしてしまった。
ヒカルのオトウサン(カッコいい)とオカアサン(麗しい)が、セカイも一緒に巻き込んで、ヒカルの進路を相談する。おお、ほのぼのしてるぞ・・・・・と思っていると、だんだんと、進路相談の対話がどんどんと切り刻まれていく。ヒカルのオトウサン(カッコいい#?)とオカアサン(麗しい#?)が、セカイも一緒に巻き込んで、ヒカルの進路を、えんえんと相談し続ける・・・・・セリフから、意味の重みを切り削がれていき、セリフとその意味を脇に追いやった<進路相談>そのものが<事象>であることを主張し、舞台に居座り、演者たちが入れ替わり立ち代わり<事象>のダンスが人数と密集度を増幅させて、舞台から、カッコいいも麗しいも剥ぎ取っていくシーンはまるで、ヒカルが格ゲーファッションに必須な金庫やぶりみたいな手袋をはめて、さながらVR版のルービック・キューブで未曾有の多面体に取り組んでいる、ヒカルの脳内パノラマスクリーンにも見えてきたのだ。
このシーンは今後またイトが復活したときに、更なる重層感と凶暴性を発揮させるつもりなのだろう。あのシーンは舞台の、どうやら空中に浮かんでいるとみえ、未曾有の空中戦を披露していた。「イト2019」の構造的な興味深さ、#舞台の約束事の壁をこわすよりも約束事の囲いを広げてみせたくなる欲望とリンクしているだろう、#ルービックキューブの多面体の各面が、舞台の#約束事、破壊したい#約束事、因習的な#約束事、いじってみたい#約束事、・・・・・「超ひも理論」の、ひも(弦)のかたちの素粒子が、9次元のレベルで振動している。

2038年問題に端を発した未曾有の災厄を乗り越えた2119年、<地域とのつながりは、平成よりも昭和に近くなっていた(←公演リーフレットより抜粋)> 
ヒカルが天才ゲーマーとしての自信を吐露する長台詞。「唯一絶対の強さを誇るゲーマーゼリフ」を細大漏らさず聴き込もうと、耳を鋭くさせる。アルベール・カミュが舞台『カリギュラ』で描いた、荘重でドラマチックで、しかし「反・名優主義」を盛り込み大時代的ロマン主義演劇の裏返しとして露わにしたカリギュラ帝の長セリフとの親和性に気付いて#悩乱した。
ヒカルは修学旅行の中にいなかった。何故#? ほぼ間違いなく、仮病を使って行かなかった。
「僕はあんな連中とは違う世界に住む天才。修学旅行#?そんな下等な連中のための下等な行事になんか、絶対に参加してやるものか!(無理矢理に、意地を込めて)」
ところが同じクラスのみんなは修学旅行に来られなかったヒカルを気の毒に思って、みんなでお小遣いを出し合い、ヒカルのために3つくらいのお土産を買ってきてくれた。ヒカルは自分がクラスのone of themに過ぎず、しかしクラスのみんなは自分を仲間のひとりとして受け入れていた事にショックを受ける。・・・・・・・そんなバックストーリーが確実に沈潜している。



ヒカルが、コントラストの強烈な口調で、大好きなセカイに問いかけても、セカイは毎回、ピントのぼけた答えを返してくる。
ヒカルはゲームで鍛えた自信で大好きなセカイを攻略しようとしたのか。それがことごとく失敗する。
セカイを、うえから掴んでみせようにもそれができない。
セカイが、大好きで大好きでたまらないのに・・・・




舞台の最後で、客席上方にひろがるPAに集結した、ヒカルとセカイ以外のすべての演者たちが台本を破り捨てて、客席に、紙片の雨がふりそそぐ。 全面を解くのではなく破壊した、ルービック・キューブの、破壊が導いた解放。キューブがひとつひとつ、解放された姿を、台本のセリフの断片・言葉を、紙片にさらしている。



過去に死んだ、ニュートンから"We build too many walls and not enough bridges (私達は壁を多く作り過ぎて、充分な橋をかけようとしない)"と言われるたびに、
日本でも世界でも、#鬼#悪魔が橋をつくったという言い伝えはいくつもあるのに、#橋を破壊した#悪魔の話というのは聞いた頃が無いことを思い起こす。人に破壊された#橋はもう、セカイ中に大量にあるのに。
無制限に大きな希望を欲望任せに願ってみせても、それが叶うことには恐れを抱いてしまう。
人の意志がうみだす情熱と、情熱の限界#!
希望を叶えたがる心を持て余す人と人と人やヒトやヒトと人と人と人ひとりひとりが自分自身に恐れをなし、
たったひとりで#橋を造っている希望に対し、「#鬼だの「#悪魔だの名前をつけ、希望を、破壊してしまう。
情熱のむなしさ#!

皆まで言わぬが、セカイは#橋を造り過ぎたのではないのだ。#断じて違う




ヒカルの友達のクラゲは、壁面に火文字をえがくほどコントラストの強烈なヒカルのセリフに、ふわっとした発声で応えていた。
クラゲはヒカルが中2病でも、それを恐れていない。
ふたりの対話が、セリフのやりとりを全部忘却して、強烈とふんわりとのやりあいが腹におりてきて、
テンションあがるのに心地よくて、ヒトとヒトとが#違うもの同士#違うままつながっていく


#この舞台で作り切れなかった橋も勿論あって#そこは今後の課題にしてほしい


客入れの音楽が、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』第三幕の前奏曲のエンドレスで、公演後にかかっていたのが同じくワーグナーのオペラ『ジークフリート』の"森のささやき"のエンドレス。どちらもタイトルロールのオペラ歌手に、無比の英雄性が求められる。ところが、このふたつの曲をえんえんと繰り返し聴いているうちに、ワーグナーの緊張感が崩壊していくのを感じていた。
その感じを、数日ひきずって、だんだんと解ってきた。
ワーグナーの音楽を通過して、緊張感(英雄性)を要求しない舞台に、放り込まれていた事を。

SAI、そしてイトでは、個々の強さが求められる。
ゲーマーの、唯一絶対の強さだけが認められる舞台なのではないのだ。
SAIは演技の上手い役者が名演技を披露する劇団ではないと思って観ており、ヒカルの長セリフに躍動にも、SAIの「反・名優主義」は刻まれていた。






そして、来たぞ・・・・・・・・・・・・・


イト2019 2019年3月10日 悠日_d0242071_23005162.jpg


たったひとりだけ本人役で出ている、SAI制作部局長の「渋谷翼」、渋谷さんがPAから、
快活に
演者達めがけて「イト2019」、もしくは「イト」そのものを投げ込み、
アミノト先生が、それを受けとめると壁が割れるようにセリフが、えもいわれぬ祈りが尾をひいていた。
ふたりの、
体がぶちわれそうな程最上昇したに違いないテンションを前にしては
いかなる理屈も打ち勝てないだろう・・・・・・・・・「さぁ行け!!!」

演者と客席のすべてを鯨のようにのみこんで振るう、
larger than life(人生よりも大きなもの)を馬車のすがたにして、迅雷のように走らせる、御者の鞭を。  

台本も振り捨て(もはや残塵して無い)黙示的な長さの左右を、縄の網の目が弦のように振動する吊り橋を、
馬車は台本の残塵を巻き上げて突っ走っていく---------------------------まだ渡り切っていない。



まだずっと、橋は続いていく。

イトが完結する日が来るまで。

目に染みる残像は、
御者にして乗合馬車の客である
演者たちも
彼らに演者を託した者たちも
その総てが、
鞭をふるう腕。
































ところで「蕎麦」って何だっけ#?#?##?#?
















by lecorsaire | 2019-03-19 23:14 | 公演

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite