我れ若し女帝の密使なりせば

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虚飾集団 廻天百眼 『闇を蒔く ~屍と書物と悪辣異端審問官~』 2月6日の観劇をしるす

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※以下のブログには、ネガティブとポジティブを蛇行する情緒不安定とそれに伴います偏見が相当量にわたって滲み出ていることをお断りしておきます。


死のイメージから解放されたかと思ったら、 https://lecorsaire.exblog.jp/27441879/

1月下旬に打った、ヰンフルヱンザの予防接種が副作用を引き起こした。観劇の1週間前くらいから、乃公は全身の倦怠感、気分の悪さに苦しんでいた。アタマも全然働かなくなった。

観劇(乃公はこの言葉、たまらなく好き)の数時間前に吉祥寺の商店街を歩き回っていたころに体調不良は頂点に達し、一度は観に行くのをやめようかと弱気になった。ドラッグストアで買った普段は飲まない栄養ドリンクを飲み、どうにか気分が落ち着いて、「よかった!これで観られる!」とうれしくなって、まだ開演まで数時間あるのに会場のザムザ阿佐ヶ谷の様子を見に行き、開場まえの準備中だったスタッフさんたちとお話をして退場・・・・ふたたび出直して午後6時半ごろに地下へと降りて行った。でもやっぱり、あんまり良い精神状態で観劇に臨めなかったかもしれない。迫真の演技力が続発し、そのたびに心身の奥深くから破壊衝動や怒りの衝動がとめどなく湧いてくるのを必死で抑えなければならないほどで、もしも実弾入りのピストルがふところにあったら間違いなくステージに向けて、ぶっぱなしてた。
しかしだからこそ、音楽劇であり巨躯の殺陣が入り乱れる帝国曼荼羅のような『闇を蒔く』からは、今までに味わったことがないほどの、鮮烈な印象をあびることができたのだ。客席の空間も舞台に巻き込んだ場外乱闘型の公演だったのも嬉しかった。

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役者ひとりひとりの、殺陣や音楽や、舞台美術の力量すべてに感服した。こんなに気持ちを盛大にゆさぶる舞台に出会ったのは初めてだ。だとすると体調不良から来た苦しみは、公演を観るために必要な前段だったんだと、気持ちを入れ替えることができた。『闇を蒔く』を観たその直後から、体調と気力の失調状態はピタリと止んだ!


去年とおととしに『贋作マッチ売りの少女』を上演した舞台芸術創造機関SAIのつながりで廻天百眼を知り、もう無くなった代々木の月光密造舎で主役のヱリコを演じた紅日毬子さんに会ったらすごく面白い方だったので、いつか舞台を観てやろうと、機会をうかがっていた。そして『マッチ』『卒塔婆小町』に出た大島朋恵さん、『MasqueraDead』に出演したこもだまりさん、さらには去年観た『箱男からの思想』の左右田歌鈴さんや『リチャード三世』の邑上笙太朗さんも出演するので、期待する諸々を大量にかかえて観に行ったのだが、観たいと思っていた以上のものを、存分に観ることができた。

さてと、観終った印象をこうしてブログにまとめていると、舞台から受け取ったもろもろの密度の濃さを思い返し、観劇前の体調不良とはまったく別に、やっぱりアタマがくらくらしている。『大菩薩峠』の作家の中里介山が書けなくてイライラすると鬱憤ばらしにピストルを持って山に入り、空にむかってバンバン乱射していたという話を思い出さずにいられなくなった(なんのこっちゃ)。受けた印象を言葉に置き換えると、印象が、適量な破壊感覚に変換されてしまう。印象がやたら鮮烈だったのは、不調気味だった体で観て、胸につまる気持ちが平常よりもあきらかに倍化して、つよく鮮明に焼き付いて残ったからだ。それはもう、言語化できる水位を超えてしまって、言語化しようなら、中学生の抜き打ちテストの余白の落書きくらいにしかならないのだ。とはいえ、まあ書いてみよう!


さあて、何から書き始めたものか・・・・・・
前作の『屍のパレード』を観ていないので、乃公が受けた個人的印象と、前作から受け継いだ設定とが違っている場合もあるだろうがその辺はご海容いただきたい。


クライマックスで、ヱリコとマリサの、さかしまの神慮に照りかえる刃先を駆使した拷問が未曾有の鮮血をふりしぼり、客席めがけて盛大に飛び散ってきたのがビックリした。審判(後述)の場面で、客席から盛大に拍手したツケを両手にタップリ浴びせられた。乃公が座っていた席は確か、ステージから5列目か6列目の、ほぼ中央。

『闇を蒔く』のストーリーには、全く共感できなかった。空想の産物ではなくホントにあったパンドラの匣をこじ開けたみたいに、敵意や殺意やムカつきが、十箱分くらいの火の粉になってふりかかってきた。職場のパワハラとか、野田市の虐待殺人の連日にわたるテレビ報道がグルグルグルグル駆け巡ってきて、気持ちが不安定じゃなくても共感はできなかっただろうが、露骨に不安定だっただけに、拒否反応は壮絶だった。とはいえ共感とは別に、ストーリーの展開や構成はキチンとしていて息苦しさは無かったし、ストーリーと一体化した西邑卓哲の音楽はどこまでも分厚く、歌唱・合唱のオペラチックな劇しさ(激しさではなく、劇しさ)には、客席からとびこみたくなるような高揚感を噛みしめた。ニーナ(大島朋恵)が仲間たちと歌う酒場の合唱は震えがはしるほどの、名場面だった。

狂言まわしの作家(十三月紅夜)と深淵(左右田歌鈴)が、敗戦によって政治的・宗教的真空状態をのっとられたエコクの国を、自慢の美貌にふさわしいチリひとつない端麗な仕立ての服を着こんで、自邸の薔薇園を悠々と散策するように歩いている。ふたりの周囲は未曾有の混乱が禍々しい円陣をひろげている。貧民街で暮らす姉妹・マリサ(柚木成美)とヱリコ(紅日毬子)が母親の手で借金取りの人買いに売られ凌辱される。 
深淵が、黒衣天使の笑みをうかべる。
「(嫌なものは全て)ぶっこわしてしまいましょう」
姉妹に、一冊の魔導書をわたす。魔導書からは、死の都の混乱を凌駕する禍々しさで<屍>が呼び出され、借金取りの人買いの、混乱世界の追い風をうけた服装に身をかためたラハブ(相田健太)を、瀕死にいたらしめる。
ラハブには、闇の中に瞬く光のような妹のニーナがいる。健気でいとけない、誰からも愛されるニーナが仲間たちと営む酒場には、いつもささやかな幸福がみちあふれている。しかしラハブの死は、ニーナたちの闇に火をつける。深淵はニーナのところにも現れ、同じように<屍>の魔導書をわたすのだ。
作家は、深淵よりも自分の方が二枚も三枚も上手だと思い込んでいるようで、エコクの国のカオスを丸ごと呑みこんで、バルザックの人間喜劇以上の惨劇連作長篇をかいてやろうといわんばかりに深淵とくっついて、心が闇に向かって荒んでいくのも知らずに、貧民あいての葬儀屋を演じ宅配屋を嘯き、貧民街の悲しみや苦しみ、怒りへの闇走りを、物書きの羽ペンと贅沢なインクに吸い上げていく。
魔女エンプーサ(なにわえわみ)によって、姉妹・マリサとヱリコが連れられていったのはテッサリア寺院に連れていかれる。寺院の総長ヘカテー(こもだまり)がステージ上方に登場し、厳格な戒律のもとに寺院の少女たちに「母」であることを強要するとき、「あっ、敵だ!敵が出やがった!」と、失調している心身で露骨な嫌悪感をふりしぼった。こもださんの演技力があったからこそ強烈に抱いた嫌悪感だ。席は遠かったけど、こもださんの表情の多彩さが全身から浮かび上がってくるのを、全篇とおして感じ入った。
少女たちが懺悔をする・・・・・懺悔を強要されるシーンでは、人民を睥睨するようにヘカテーが言い放つ。「この者が有罪だと思うなら拍手を!」恐怖心を煽るだけ煽って君臨する宗教倫理を正義にすりかえて聊かも躊躇わない母性・教師性への、猛烈な不快感がこみあげてくるのを打ち消すように、盛大に拍手をかました直後、猛烈な殺意が猛毒のように押し寄せてきた・・・・・「ヘカテーぶち殺す」
教会の美術には仕掛けを感じた。
骸骨の跪拝を描いたおどろおどろしさは客にだけ見えていて、教会の少女たちの目には、清らかな天使に見えているのではないだろうか?

ニーナと行動をともにするシクラム(邑上笙太朗)は、神殿に居る姉を八つ裂きにされてしまう。彼女(レイジン 辻真梨乃)は神殿の学校では高圧的な生徒だが、ヘカテーと神殿が、貧民街に毒をばらまき人民たちを迷妄に堕として神殿への服従に駆り立てる悪策をめぐらしていることを知ると密かに反抗し、貧民街に潜入し、警告をよびかけようとしていたところを、シクラムの仲間たちによって殺されたのだ。ところがシクラムの絶望とは別に、ニーナたちは、ラハブが殺された悲しみに端を発した闇の拡散がいよいよコントロールの手綱を失ってしまう。人の心は簡単に善にも悪にもなる。深淵は、弱く心やさしい悲しみに抱かれた人間に<魔>を託す。<屍>の魔導書は携帯用革命爆薬庫になる。
シクラムは、ニーナを先頭に神殿の横暴に反抗する暴力革命勢力が漆黒の旭日旗をかかげて突き進むに及んで完全に孤立する。シクラムは、神殿よりも暴虐な怒りをつのらせている姿に怒りをつのらせる我ら客達のいわば代弁者で、仲間たちは革命への信念と狂乱が足りてないシクラムを集団リンチで半殺しにする。
マリサとヱリコは神殿のなかでかぞえきれない流血と残酷とを糧に地位を伸ばし、魔女エンプーサをも差し置いて、異端審問官とヘカテーの守護獣にまで登りつめるが、最大の敵であることを片時たりとも忘れていなかったヘカテーを討ち取るには至らなかった。

ヘカテーを討ち葬り、ヘカテーを継ぐ絶対者となったのはニーナだった。うず高いジェノサイドの山頂に立ち尽くし、虫けらの群れを見る目で睥睨する。その背後から、機関銃の乱射、爆撃の轟音が幻聴になって劇薬さながら押し寄せてきた。
表情が生む声が聞こえる。「もしお前が私よりも正しいと信じるなら、これだけの数の死者すべてを生き返らせてみせるがいい!できないだろう?できるものか!!!」ぶち殺す・・・・・・・・ヘカテーに抱いた憎悪をはるかに超える怒りがこみあげてきた。
物語りの最後で、ニーナを死へ追いやったのは半身不随となったシクラム。
その心の優しさに、深淵は、天使の笑みを浮かべて、魔導書を手渡した。「ぶっこわしてしまいましょ♡



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「愚かな!」深淵と、彼をとりまく全てに絶望した作家を、薔薇園の棘が、羽ペンの先端かペン先を削るナイフのように、群れをなして総身を打ち砕く。破壊してはならないものの多くを、愚かさが群れをなして破壊し続けた事。その破壊に加担していた自分の愚かさ。やがて破壊するものがなくなったら自分自身を破壊するしか道がないという絶望をこめて絶叫し、喪心する。


繰り返すようだが『闇を蒔く』のストーリーに、乃公は全く共感できなかった。
だが、この不快極まりないストーリーを、脚本家は、そして作家も、人買いも寺院も異端審問官も革命組織も屍も、登場人物の全員が、虚構の、えもいわれぬ繊細で崇高な世界へと誘い込んでいたのだ。

その世界のシンボルとは、
ナカムラマサ首が制作した、モチーフは仮借なく残酷だが精緻で気高い、ステンドグラス。

ステージの上方、ヘカテーよりニーナよりも高く掲げられて、
「空が白み始めてきた・・・・」ヱリコが、何度となく言うセリフに呼応するように、ステンドグラスは最も美しい光を放つ朝を謳いあげる。




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一番好きなシーンがどれだったかというと、先にも挙げたニーナと仲間たちが歌う酒場の合唱と同じくらい、ゴーダン(桜井咲黒 マリサとヱリコの<屍>)と紅日さんの舞踏のシーンが最高だった。もっと長ければもっとよかったんだが。ヘカテーのリサイタルで少女たちがペンライトをふりまわすシーンも全篇の白眉。

主人公のマリサとヱリコの、拷問される少女から鮮血をみちびく、異端審問官の熱演には頭が下がった。
鮮血が、下半身に飛び散るのはビニールで防いだが両手は真っ赤でベトベト。黒の革手袋嵌めて、帰りの電車のなかで殺人犯の気分を味わわずにいられなかった。
公演が始まる前に、客席に血が飛び散るから防御のビニールの配布をよびかける声があがると、客席まで上がってきたゴーダン曰く、「俺たちが楽しませようとしている鮮血をビニールでガードしようってのは、粋ぢゃねえよなあそうなんだけさ。



敵だとかぶっ殺すだとか物騒なことを感じて観てたけど、気分が不安定ながら、役者渾身の演技を、よくよく受け止めることができた。
ヘカテーが毒をばらまく歌にこめた、全能的な陶酔感。
カーテンコールでも、こもださんが役者全員から全幅の信頼をうけていたことがひしひし伝わってきた。
そして、大島朋恵さんの歌についても触れなければ。『贋作マッチ売りの少女』以来の"歌い手"としての再会だったのが今回の公演。『マッチ』の神奈川公演も去年の2月初めだった。もう少しソロで聴きたかったけど・・・・・ただヘカテー亡きあとの全能者になったニーナがソロで歌ったら更なる憤激がこみあげてきたかも知れないが・・・・いまはただ、カオスに支えられた大地への、抱擁と、そして祈りの歌声が、脳裏にやきついている。


物販コーナーのスタッフが修道女だった。ロザリオなんかおっぱいの奥に挟まって見えなくなってたし。
劇中歌「闇を彷徨う」サントラ集を買って聴いたら、舞台を思い返してもう涙がボロボロ止まらなくなった・・・・・・



カオスに支えられた大地への、抱擁と、そして祈りの歌声すべてに救いを。その救いを笑うすべての者に呪いを。



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# by lecorsaire | 2019-02-19 13:12 | 公演

「Ms Poltergeist」




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観た場所は2年前に、『贋作マッチ売りの少女』栃木公演が行われた南宇都宮の『悠日』。今回も、とても素敵な劇場だと思った。
去年の暮れから、俺は「死」の強烈なイメージにとりつかれていた。強烈なまでに末端肥大的で、まとまりがなく、圧迫する力を持て余すように表面と表情がぶあつい死のイメージだ。それが「Ms Poltergeist」を観た1月26日にも、圧し掛かっていた。


おおっ?・・・・とツバを呑みこんだのが、公演冒頭で、表面と表情がやわらかい「死」を描いていたことだ。この舞台では死が「虚無」と呼ばれているのだ。
冒頭がステキだった。浮遊する虹色の球体が群れをなしてスロー映像の螺旋をえがいてみせるような音楽にふわふわとつつまれるようなパントマイムの中心に、メアリーマグダレンのドレスを着た、パンダメイクの、 幽霊(Geist. 独逸語。幽霊という意味の他に、心、あるいは精神という意味もあるのネマ。この子が主人公。ネマは全篇にわたって、Poltergeistらしく少々うるさい音をたてながら、画家になりたがっている女の子の、もうひとりの主人公のホロを見守っている。
ホロの祖父は、彼女に絵を描くたのしさを教えたものの絵描きには絶対なるなと言い続けて、ある日コロリと死んでしまうと、気持ちがなんとも晴れ晴れする「虚無」の世界にたどりつく。ここではその人が、人生で最も輝いていた頃の姿になって、羽根をのばすことができるのだ。いい場所だ。客席からもハッキリ感じた。『悠日』で描かれるのに相応しい。ホロの祖父の、あの晴れ晴れとした笑顔は公演でいちばん胸にやきついた。
永遠の虚無に身をゆだねる心となり、精神となる。この場所に、文豪のゲーテも、ワーグナーも、画家をめざしたヒットラーも訪れたに違いないのだろうが、虚無から見えるのは、戦争も、人の残酷さも、絵の表現力もすべてを対等な横並びにして見せる視点なのではないだろうか。そんな風に強く訴えてきた。そんな風にみえる場所を、強く求めていることを、この舞台で、脚本で気づかされた。

『不思議の国のアリス』のマッドハッターを思わずにいられなかったスチームパンクなエクトが、虚無に巣食い、1000年を見通し、人の心は簡単に善にも悪にもなることを見続けたその視界のなかで、ネマは懸命に走り続ける。ネマは不思議の国のアリスになるには少々煤けた空気を吸い過ぎているかもしれないが、ネマのことを本当の妹のように愛しているお花屋のソフィ、じつは残酷な人買い市場の斡旋者が、あたたかい大粒のなみだを流すのを見届ける。
おなじく人買い市場に身を置いているソフィの兄のジョネスも、若い頃の、小さな幸せを絵であらわす画家になろうという夢を、戦争が起こって激しくしかなくかった時代に握り潰されていた。すさんだ営みに心が凍り付いていたその亀裂をネマは見届けるのだ、画家になりたがっていたジョネスの過去の断片が日本にあり、それが未完成の一枚の絵としてホロの祖父に託されており、その絵がホロの手で完成される軌跡を。
ホロには、ネマとは別に良い奴が幼馴染として常に気遣ってくれている。けーすけは、ホロの絵がゴッホやピカソの絵のように歴史を揺り動かすパワーなど無くても、観るひと全てに、ひとにぎりの「幸せ」をあたえる事をよく理解してる。このキャラクター、すごく普通な良いヒトで、観ていてつい「まいったなぁ・・・」と思ってしまったのだが、キャラとしての説得力は強固だった。けーすけが、ホロと結婚しなかった事に、物語の後にかれが普通さを脱していく前兆を見た気がした。「虚無」にたどりついたとき、けーすけはどんな姿をしているのだろうか。
役者ひとりひとりが、ふてぶてしい位にイイ顔をしていたことは、ハッキリと書いておきたい。脚本家が人買い商人の役で凶悪に無言出演していたのを見逃していない。
しかし、本来ソフィーを演じるはずだった豊田七海さん(『贋作マッチ売りの少女』栃木公演にも登場していた)の登壇を観たかった事もはっきりと書いておく。


舞台が、終わりに近づいて、ああ、もうみんないなくなっちゃうんだ・・・と、
恥ずかしくなる位やるせない気持ちが、腹にひろがった。

こんかい舞台をみて、東京でいかに自分がギスギス暮らしているのか、少々考えさせられた。
少々高額なレザーの手袋をどこかで紛失したのだが、だんだんと、そのうしなわれた手袋の着け心地に、東京での気持ちの軋みのシンボルといったものを感じるようになって、ああ、アレから解放された!という心安さが、腹にスッと降りてきた。


さあ、「Ms Poltergeist」を投下した演劇集団『つむぐ』は旗をかかげて出航した。
次は、どう出る?



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# by lecorsaire | 2019-02-13 21:06 | 公演

夜を喰むスマラ



『夜を喰むスマラ』公演期間中の3日間、俺は・・・・・・・・・・・・・・「リアルスマラ」を彷徨っていた!公演の翌日、俺は小屋からほんの数分の某所で--------
まあそれはいい。幻想芸術集団Les Miroirs公演『夜を喰むスマラ』初日(1月18日 金曜日)の、感想というか印象を書かせてもらおう。


19世紀フランスの幻想小説作家、ホンモノの吸血鬼に会ったことがあると称するシャルル・ノディエの原作『スマラ、あるいは夜の霊』を舞台に変容させ、白磁絵付けのページェントを眺めるような、ロマンティック劇に変容させていた。夢のまどろみを騎馬で駈けていくロレンツォ(朝霞ルイ)が、夢のなかに拡がるテッサリアの饗宴の部屋で、戦死したはずのフォーティス(中川朝子)と再会する。
原作から抽出したセリフを、ノディエの上品な筆運びにふさわしく大振りな構えを取り除き、透明な肌をした農婦が果物畑からきれいな果実を丁寧に摘み取る作業のような舞台で、和やかで落ち着いた気分につつまれていた。強烈なコントラスト(セリフのメリハリ)からは遠くかけ離れ、オスマン・トルコ軍が陣取ったパルテノン神殿に大砲をぶちかます場面からも、轟音の効果音など1秒も聞えてこない。野営地での、フォーティスとロレンツォのセリフの掛け合いに強烈なコントラスト(メリハリ)が足りてないなァ・・・・と感じながら思ったのは、ふたりがヴェネツィア共和国軍の士官だということ。おたがい大砲の炸裂音を聴き過ぎて耳がよくきこえないから対話にやや間があくのも道理なのだ。

登場するときは常にステージの中心に陣取るスマラ(Mayu)が、星羅な舞いで見せる、テッサリアの夜の豊饒・奇跡・祝歌から、ひとりひとりが顔をのぞかせるのように舞台がすすんでいった。
三姉妹の魔女ミュルテ、テイス、テライラ(中村ナツ子、麻生ウラ、里仲景) ロベール・ドアノーの写真に登場するヴェネツィアの黒い仮面のモノクロ三美神が動きまわり、仮面を剥いだその奥底をみせつけていた。
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ロレンツォの愛馬プレゴン(小池秀典)は原作のプレゴンに、クッキリとした金色の輪郭(肉づけ)をほどこしていた。クライマックスではロレンツォの処刑人となり、その立ち姿で舞台の中心にスマラに肉迫する程の分厚い柱をうち建てる。彼のセリフがうまれる瞬間を、手に汗握ってみていた。

しかしながら、この舞台から、最も肌身にせまりくる神域をつかみとったのは魔女・メロエー(乃々雅ゆう)の口からうまれたセリフだ。
俺はこの舞台から、メリハリが足りないとかコントラストがイマイチとかグダグダ腐って観て居たそれまでの道のりに、非常に個人的な心情の奥底に染みこんだのを感じたのは、軍人的な勝利しか信じていないロレンツォに、メロエーが言い放った、このセリフからだった。
「我々の崇高な心は、もっと別のところにある。」
こんなセリフは映画や漫画では、絶対に心に響かない。舞台だからこそ出会える、生きた奇跡ではないか。
原作を読む者すべてに、最もふかい印象を穿つ、メロエーが神域を顕わにすると共に、ノディエの原作の、壮麗かつ奇矯をきわめる言語の奔流が客席を、薔薇蔓のようにからめとってくる。だからこそ、さらに、こうも言い放つのだ。「この場所から解き放たれ、あるべき場所へと行きなさい」この脚本はノディエの原作への愛を、じつに的確に表したと申しあげたい。

「テッサリアは夢のはざま」・「お前は何者でもない」
何者でもないなら、何者になりすます必要もないのだ。
この舞台に出遭ったことで、俺は翌日のカオス(何をやってたのかは言えないw)を、「リアルスマラ」へと置き換えることができた。
3日間の、俺の心に霊力をくれた『夜を喰むスマラ』よ、ありがとう。


引用したセリフは、観劇中に書き留めたので、観ながら自分に都合よく聴き取ったのかもしれないが・・・・・

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# by lecorsaire | 2019-01-22 17:56 | 公演

久作怪聞希臘兇歌(拙作)


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発表は1999年の夏頃。
夢野久作の『瓶詰の地獄』『ドグラ・マグラと、ギリシャ古典劇、アイスキュロスのオレステイア3部作を綯い交ぜにして書いている。
いまの筆力と引き換えに失ったエネルギー(原動力はリビドー)が、所々に顔を出している。

読み返してみると、当時の、常になにかに追い立てられている余裕の無さがそのまま作品になっている。





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# by lecorsaire | 2018-10-30 23:33

9/29(土) 『MasqueraDead』、『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレ  2



9/29(土) 『MasqueraDead』、『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレ  1
https://lecorsaire.exblog.jp/27142851/






Ⅱ.  17:00 『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町』ソワレ
入口でならんだ順に降りていくと、さっきまで『MasqueraDead』の会場だった、アトリエ・サードプレイズ地下一階に案内された。

「?」
地下二階に案内されるはずなのにどういう訳だと思っていたら、終演後のトークショーをここでやるので、その席を「前取り」しておいてほしい、ということだ。


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ほどなく『MODERN NOH PLAYS-卒塔婆小町-』ソワレ開場が告示されると、トークショーの席がうしろの人びとを先頭に、地下二階へと降りて行くことになった。

「??」
ええっ、これじゃあ後ろのほうの席しか座れないじゃないか・・・・と思って地下二階に行くと、


「!」
「全席ほぼ最前列 という仕様」と聞かされていたことに納得した。
https://twitter.com/SAI20XXtwt/status/1040234549957996544
演目が、八方からみえる構えに、客席が配置されていたのだ。



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あらすじ:
夜の公園のモク(煙草の吸殻)拾いの老婆が、ベンチの恋人たちの邪魔をしながら拾ったモクを数えている。それを見ていたほろ酔いの詩人が老婆に声をかける。詩人は、ベンチで抱擁している若いカップルたちを生の高みにいると言うのに対し、老婆は、「あいつらは死んでるんだ」、「生きているのは、あんた、こちらさまだよ」と言う。
そのうち老婆は自分が昔、小町と呼ばれた女だと言い、「私を美しいと云った男はみんな死んじまった。だから、今じゃ私はこう考える、私を美しいと云う男は、みんなきっと死ぬんだと」と説明した。笑う詩人に老婆は、80年前、参謀本部の深草少将が自分の許に通ってきたこと、鹿鳴館の舞台のことを語り出す。
すると、公園は鹿鳴館の舞台に変貌し、舞踏会に招かれた男女が小町の美貌を褒めそやす。詩人(深草少将)は19歳の令嬢となった美しい小町とワルツを踊り、小町(老婆)の制止も聞かず、「何かをきれいだと思ったら、きれいだと言うさ、たとえ死んでも」と宣言し、「君は美しい」と言ってしまう。そして、「僕は又きっと君に会うだろう、百年もすれば、おんなじところで…」と言い死ぬ。
「もう百年」と老婆が言う。すると、再び舞台が公園のベンチに戻る。死んだ詩人は警官たちに運ばれ、99歳の皺だらけの老婆は、またモクの数を数えはじめる。

※source: https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E8%83%BD%E6%A5%BD%E9%9B%86_%E5%8D%92%E5%A1%94%E5%A9%86%E5%B0%8F%E7%94%BA
※「深草少尉」 と書かれているが少尉ではなく少将。



開演前の、客入れ時間に、般若心経の録音が重心低音を轟かせる。古典能楽の『卒塔婆小町』の卒塔婆にあたる、公園の木製ベンチが照明をあびて白くかがやき、
その周囲を、客席の客にまじって、明るさを剥ぎとられた影ぼうしのアベックが「色即是空、空即是式」、砂金を下地に塗った黒いろで、むつみあう。


大島朋恵が演じる、99歳のむくつけき老婆が登場する。アベックたちが、老婆の陰にぞくりとする。
発した声の、ぎょっとするほど真に迫る形相に、酔いどれた詩人との対話に、だんだんと時間が消え失せていくのを感じる。
影ぼうしの詩情豊かさはこれぞ幽玄美。
アベックのセリフは、影に覆われ、
彼らの嵌めた腕時計もろとも
役者たちがみんな、アベックから、「詩情」(情念)になっていく。

心のなかで感じる手触りが、どんどんぶあつくなっていくのが、頼もしい。

老婆は詩人の手を引いて、80年前の、鹿鳴館のワルツの中心へと、19歳だったころの小町のすがたで分け入っていく。

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鹿鳴館でのダンスで輝かしくなりひびくワルツは、ウェーバーの「舞踏への勧誘」。 
https://www.youtube.com/watch?v=Mf8kheUuEAA

この曲は思い出すのが、三島原作の映画『美しい星』でもインチキ健康水の会員逹がパーティーをひらく豪華な会館に登場して、うさんくささと俗悪さをかきたてていた。
けばけばしい成金趣味にうつつをぬかした、鹿鳴館の客たちのダンスがピキパキと、俗悪と手に手をとって交錯するのは序破急の破だろうか?
その中心で、参謀少将・深草の手をとって
俗悪に折り重なる衣裳、香水、宝飾の山頂にのぼりつめる、
この世ならぬ、まさにこの世ならぬほどの、大島朋恵の美しさは、
ため息をつくどころではないのだ。




今では、小町と少将の、華麗なセリフなどきれいに消えて、セリフまわしの起伏なんぞサッパリ消えて、あとにはサーっと、枯淡にみちた、真っ白い砂地が月明かりを浴びて、どこまでも拡がっていくのが、はらわたの中に残っている。
砂の表面には、シワのような襞が幾重にもつらなり、秋海棠の西瓜色がほんのり映え、セリフは残像が、砂地に足跡がきれいに映えるように鮮やかに焼き付いている。



音もなく砂の上にたおれるように、公園のベンチのそばで、白くかがやき死んだ少将詩人を、巡査が、浮浪者たちに指示して屍骸を片づけさせるシーンから、舞台が異様な巨大さをみなぎせ、息を呑んだ。
老婆小町の背後から鳴り響く1945年8月の玉音放送が、会場をおしつぶすほどひろがっていき、時間の流れでできた円周を活性化させる。

スマホのシャッター音が、時間の流れの巨大さを、能面箱にふうじこめる。幕。


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クライマックスでマッチを盛んにするシーンが、寺山修司だとか、アングラであるとかを彷彿させるという指摘が公演後のトークショーで登場したが、
篝火に照られた、能舞台の迫力を思って、観ることができた。
八木タケルさんの演出力に感服した。役者もスタッフも、臨界点まで、烈火の火文字さながら三島由紀夫の篝火を灯していた。



まだまだ噛み砕ききれない部分もいろいろある公演なので、
現時点で書ける事だけを書いた。





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# by lecorsaire | 2018-10-11 16:29 | 公演

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
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