人気ブログランキング | 話題のタグを見る

我れ若し女帝の密使なりせば

lecorsaire.exblog.jp ブログトップ

昭和精吾事務所「氾濫原3」

昭和精吾事務所「氾濫原3」 _d0242071_20572081.jpg


 

 言葉というやつが、なりたいものになろうとする願望は人間のそれとはおおよそ比較にならない。
 なにかになりたいという願望や欲望なしに、言葉は言葉でありえない。
 言葉はいついかなる時にも何かになりたがっているし、
 人間の思考力とは別次元で、何かになる自分(自分たち)を考えていて、何かになっている。

 
 

 
 昭和精吾事務所「氾濫原3」のテーマは、<命懸けの恋>
 なりたいものになろうとする欲望の喚起が充満する言葉なしにはありえない恋愛、テンション上がるじゃないか。
 上がり過ぎちゃったんだけどね、観ていて聴いてて......




 じつは観劇の数日前から「断食」をしていて、神経が鋭くなりすぎ、幻覚と幻聴が過剰に襲ってきた感もあるにはあるが。

 この公演では、音楽でステージを震撼させるのが昭和精吾事務所・音楽監督の西邑卓哲さんだけでなく、永井幽蘭さんも出てくれて、さらに10日のマチネでは幽蘭さんが『死のゆび』をやるというので、私は公演を見る時には自由席の場合、たいてい最前列に座るのだが今回も真ん前の、幽蘭さんが弾くピアノのそばに座り込んだ。

 まず初めに、寺山修司の詩の朗読。バサラな出で立ちのような外観の創り込みが、朗読によって、ひじょうに淡々とした味わいになる。しつこさがなく、静然としているのだが、過剰なイメージがたっぷりと蓄積されている。
言葉が初めにあって、その後ろにストーリーの影かたちが付いてきている。
詩であってもストーリーがちらつき、言葉が濃厚に覆っている。「少年航空兵の背理」には特に、そこを掴めた。



「氾濫原3」初めっから終わりまで「ふてぶてしさ」の連続だった。
 朗読劇が、こんなにもぶあつく、ふてぶてしく聴こえるとは。
 恋愛がバトルだから、言葉がふてぶてしさを得たのか。そうなのかも。


 永井幽蘭さんの『水面の音楽』に導かれるように、乱歩の『黒蜥蜴』がステージに立ちあがる。女賊<黒蜥蜴>と対決する名探偵・明智小五郎。黒い宝玉のような黒蜥蜴の、こもだまりさんと、辻真梨乃さんの・・・明智?

 おおっ、

 こんなにも綺麗で可愛い明智に出遭ってしまうとは!!!


 

 満島ひかりがNHKのドラマで披露した、耽美の化身ともいうべき明智小五郎を瞬時に忘却......
 いやいや満島ひかりの明智も最高なんだがwww
 断食で冴えわたった俺の五感におしよせる乱歩の言葉を、脈々と謳いあげてくる明智小五郎が、こんなにも麗しくて、健気で、儚くて、未曽有の妖しさにみちみちているなどとは・・・おい冷静になれ

 

 幽蘭さんの音楽に導かれると書いたのは、演者たちが時折、朗読のことばを発せず、息を呑むようにうつくしいマイムを、音楽とともに披露するのだ。
『狂った目で見つめて君はとても綺麗』『夜のほとり』まるで乱歩のために作曲したかのような永井幽蘭の曲と歌とともに、マイムにも言葉が蓄積されていて、聴く喜びはパノラマ仕掛けの幻惑のようにひろがっていく。
 かつて舞踏の公演を貪っていた頃に聴いた話だが、薄物を纏って踊るというのは、写本のページを巻き付けることをイメージするのだとか。その話を聞かせてくれたのはアフリカや中東に長く暮らしたモルドヴァ人で、その人もダンスをおやりになっていたのだが、とすると舞踏には、言語の氾濫が籠められているということになる。



 そして『死のゆび』は奏でられ、歌われた。『黒蜥蜴』のなかでもとりわけ好きな、黒蜥蜴とその部下の松吉(に化けた明智)の対話の直後であるから喜びもひとしお。マイムの美しさもひときわ染み入る....
 なるほどと思ったのは、『死のゆび』には<言語の氾濫>という面が確実にあって、昭和精吾事務所もそこを見てくれていたのだなという事。白蛇(しろへび)と、黒蜥蜴のからみあいとは、そうそう味わえるものではない。
 ....などと、美食の余韻に耽る心地をもぎ取るように響き渡る、『次に会うときには別人の顔で』。荘厳な切なさが、明智と黒蜥蜴の決着と、黒蜥蜴の最期を見守る。
 歌詞のなかでも、とりわけ切ない場面を・・・永井幽蘭ではなく、黒蜥蜴が歌う!命懸けの恋!
 好敵手から永遠の恋人となった明智が女賊終焉を朗々と謳いあげると、我知らず、マスクの奥から嗚咽がこみあげてきた。






『黒蜥蜴』が音楽と朗読の背の高さがほぼほぼ均等な相克劇だったのに対し、ロミオとジュリエットでは朗読が、頭ひとつ分くらい突き出しているように思えた。朗読は『黒蜥蜴』よりも光と影の濃さを増している。
 ぶあつくて、ふてぶてしいと前述したけれど、『ロミオとジュリエット』の場合はそれがひときわで、この劇って、<愛によって人間性の普遍を描いた物語>というとらえ方をしがちだが、それは美化し過ぎではないだろうか。ロミオはジュリエットに出会うまえは、別のひとを愛しまくっていたのに、ジュリエットが現れるとさっさと前の恋人から心が離れていくような図々しく、ふてぶてしい男であるのだと、長田大史さんのロミオをみていて(聴いていて)思わずにいられなかった。
つまりロミオとジュリエットは、「人間的であり過ぎた恋人愛を描いた物語」なのだと、今回の「氾濫原3」でそういう思いを改めて噛みしめたのです。
 西邑卓哲さんの音楽が、これが凄く良かった。イタリアの武家貴族の屋敷で鳴らされるリュート曲の、「緊張感の高さ」だけを抽出したギター曲を、朗読の緊張感と咬み合わせている。ここは咬みあい過ぎてもいけないのだと言わんばかりに、朗読と音楽がおたがいに「不連続面」を、わざと作っている。
 思い返しても、異様な緊張感が張り詰めたロミオとジュリエットだった。これは朗読劇だから出せる緊張感なのだろうか。梶原航さんのロレンス神父の、口調とまなざしの冷え切った否応なさ。これほど冷酷なロレンス神父には初めて出会った。ある小説家が「夜の死体は底なしに白い」と書いたのが脳裏で炸裂する。永井幽蘭の曲も冴えわたる。ロレンスとロミオとのすれ違いが、冷酷な夜の視界をひろげる。
 もはやストーリーなど弾けとんで言葉と音楽の表裏一体だけがそこにある。目の前には、終焉でもラストでもない、完璧な構図の沈黙がよこたわり、『月の雫 星の涙』の静かな静かな「語りかけ」が、愛し合うふたりの死に降り注ぐ。



 『仮面劇・犬神』が、短かったけれど炸裂の度合いが最も強烈で、もしあの中に投げ込まれたらどうなるのか・・・・と思うと狂喜しそうな世界だった。
 西邑さんの音楽はまったく凄い。マクロコスモスの膨張の中心に、すべてを捨てて飛び込みたくなる。

 


 10日のマチネでは、この回だけのスペシャル朗読者として常川博行さんが登壇し、寺山修司の『読まなくていいあとがき』を朗読した。
 死にみちあふれた夜が明けて、田園に朝がやってきて、お味噌汁といっしょに胚芽米をたっぷり混ぜたご飯を食べるような味がひろがった。


 
 そして曾根崎心中
 公演のテーマは命懸けの恋、なのだが、興味深いことに朗読の骨格を見ると、ロミオとジュリエット」と「曾根崎心中」は男性ふたりの相克が重心になっているのが面白い。徳兵衛と九平次の対話がぶあつく、徳兵衛を破滅へと陥れる九平次の呪いの言葉のひとつひとつが火にくべた鉛の重たい活字であり、徳兵衛の、怨みの調をたたえた血の涙の湿り気が終焉まで残留する。
 公演をみるまえに、脳内で『曾根崎心中』の人形浄瑠璃を、『死のゆび』の人形時計になぞらえた妄想をひねり回していた。『死のゆび』は、『曾根崎心中』で弾くのかな....と。
 公演の実物は、けっこう生々しい芝居の姿でせめてきたので、おおっ、こうきましたかと。
 妄想のうえをゆく、肉厚な江戸芝居の言葉が礫のようにとんできて、冬の幻影がめらめら立ち上ってくる。
 肉厚と言えば、辻真梨乃さんによる、講釈師調の朗読の説得力も凄い。
 クライマックスは燔祭はんさいの人身御供のような徳兵衛とお初の終焉。
火盤ひざらの上の生首のような終焉のような九平次にも奸雄の風格が。
  
 徳兵衛とお初の、舞台のそとへと走っていく終幕には、静寂だけがひろがる。
 


 


 公演のラストは絶対に『アメリカ』だろうと思っていたが、やっぱり。



 「裏返しの柔弱」のような、幼劇の、圧倒ではあっても、骨太には決してならない、行方をのろう握りこぶしのなかで、征矢そやの束を握りしめるようにアメリカの星条旗は丸まったまま、決して広げられることはないのだろう。
 じっと聞いていると、息が続かない。彼岸まで心身もろとも攫われていきそうになる。『曾根崎心中』の終幕がつくりあげた静寂に降りてきた、言葉だけが、聴く者の咽の渇きをどこまでも膨張させる。


昭和精吾事務所「氾濫原3」 _d0242071_20575371.jpg

# by lecorsaire | 2021-12-20 21:06 | 公演

りくろあれの「外科室」そのに

 
https://lecorsaire.exblog.jp/28607615/
そのいち のつづき。



「真の美の、ひとを動かすこと、あの通りさ。君はお手のものだ、勉強し給え」

「当たり前だ、おれは画師(えかき)だぜ」



画師と、高峰との、シンパシー(精神感応)がつづる、時間・空間を超えた幽玄所作、これもひじょうに、能楽的。そして彼等も、時間と空間を超えて舞台に立っていたと思わせた。

彼等が使うセリフは明らかに、看護婦とも「壮佼 (わかもの)」「紳士」「翳」とも違った、2021年の呼吸音を纏ったものだった。とりわけ画師(えかき)のセリフが。




画師の視点が、原作とは完全に違っている。
原作は、明治を生きる自負がみなぎった画師の、「我が技量の及ばざるは無量なり」まさに蛇蝎の王者ここにありといった、傲慢にちかいほどの視点が展開されている。

こんかいの舞台でみた画師は、2021年を生きる、表現者のくるしみを吐露して憚らなかった。
美しいものを描き止め、永遠にこの世に残し続ける、それはほとんど儀式への服従にちかい純粋さをこめたことだろうか。
美しいものを数え合って笑った二人、画師と高峰が、身も心もつつみこむような躑躅の赤に出会った。
画師は躑躅の、意味を超えた、純粋な赤のうつくしさを見た。

しかし高峰には、そこに真の美はなかった、ただ赤いだけだった。
真の美は、高峰ひとりにしか見いだせなかった。その美を抱いて、高峰は9年間生き続けた。
画師は、高峰に永遠に去られ、ひとり残された自分を責める。
じぶんは躑躅の花の赤に目がくらんで「真の美」をみつけそこなった、出来損ないの画師だったのだと。






「でも、あなたはわたくしを知りますまい」
貴船伯爵夫人の、言葉の魔術だ。しーんと、このセリフがラストまで、
9年前と9年後のふたりのこえをつたって、墨絵の線のような余韻をたもっているのだ。
この言葉が、画師のなかにひっかかって、画師を五里霧中のおくそこに投げ込んで永遠に抜け出せなくしてしまうところに、
別の言葉が、救いの手をさしのべた。



「存じません」「知りたくもありません」「あなたは、知ってどうなさるおつもりですか?」と。

「外科室」を、能楽的なステージとして見せてくれたキーパーソンともいうべき、貴船夫人の女中の、綾のセリフだ。




画師が、高峰と、生きている者と、死んだ者との時間と空間を綯い交ぜにして対話していると、

躑躅のもえたつ赤のような着物姿で、その言葉を継ぐ。「あなたを見ていると、遠い昔のことが蘇ってきた」と。
純粋な美をみた画師も、真の美をみた高峰も、
躑躅の花の、もえさかる赤を、ふたりで走り抜けたのだ。
そうさせてくれたのが、ほんの一瞬だけ、その正体をあらわにする、普賢菩薩。それが綾。
躑躅の、もえさかる赤をまとった、普賢菩薩のすがたを、ほんの一瞬。


「忘れません」貴船伯爵夫人は手術刀が食い込むちからに手を添え、あおざめる高峰の眼前で、胸をかききった。





そして、高峰の、このセリフを思わずにはいられないのだ。「君なら、わかるだろ?」と。

「君なら、わかるだろ?」このセリフ!
原作には出てこないこのセリフが、「外科室」の、いわば点と点とを一本の「線」へとつなげる。
セリフや、笑顔や、マスク顔、蛇蝎のごとき生臭さや、
そして綾が、菩薩の口からではなく、綾の姿で言わねばならなかった、「あの時の笑顔以上に、美しいものに出会うことはないでしょう」この言葉も、あらゆるすべてをつなぐ。
この言葉に、生きている画師は救われ、そして知ったのだ、
じぶんは、高峰と綾が「真の美」に出会ったことを、受けとめたのだと。



画師は、ずっとずっと手にしていた画布を引き裂き、

普賢菩薩の見下ろす宙に、投げ上げる。


息をのむような照明と音響(ストリングス)が、透きとおって炸裂し、
綾は、高峰と画師にむかって振り向き、微笑む。すると、
真の美に出会った高峰と綾、そして画師の3人にむけて、9年前の夫人と、寝台の夫人のふたつ姿が聳え立つ。
音響と照明も、点と点が、ラストシーンで、一本の、線になった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

終演後の面会は、やっぱりここが栃木でも、そういう所は全国一致ということで叶わなかったのであるが、その代わりに、演者が全員で、舞台の周囲の客席をまわって、拍手にむけて挨拶するかたちがとられた。
つまり、これは言葉を介さずただ目と目だけで挨拶しあい、演者と観客が、高峰と夫人との目くばせを疑似体験できる仕掛けが込められていたのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「アトリエほんまる」という、宇都宮城址公園そばのハコで観ることができたので、鏡花ものの舞台で本丸といえばということで、今回の舞台版「外科室」は鏡花の戯曲、『天守物語』をも思わせた。いや、それは嘘ですw
でも、いつかりくろあれの公演で鏡花のサロメ、『天守物語』をアトリエほんまるで観てみたくなりました。


りくろあれの「外科室」そのに_d0242071_23501429.jpg


# by lecorsaire | 2021-05-21 00:11 | 公演

りくろあれの「外科室」 そのいち


りくろあれの「外科室」 そのいち_d0242071_23371309.jpg



今これを書いている時点で思い返すと、本当に奇跡のような状況で、
53日の午后3時の公演の会場「アトリエほんまる」に、潜り込むことができた。




りくろあれ公演の大人気と、現状の衛生管理の完全徹底をうけた客席の削減で、チケットが販売日からわずか
2日での完売には、びっくりしたし、もどかしい気分もあった。そして公演を観るまで、ずっと不安だった。「ソーシャルディスタンス」の全国的普及が栃木も東京と同じ空気にしてしまったら・・・栃木の、のんびりと時間が流れる味わいを消してしまうのではないかと。




公演を観終わり、「外科室」は間違いなく、栃木の公演であったと確信できたし、りくろあれの公演の新たな足跡にもなり、鏡花の原作小説を、かなり忠実に舞台にし、そして舞台が上演された
2021年の足音も、ハッキリと聞き取ることができた。


「アトリエほんまる」の内部は、栃木っぽいだけではなく、栃木を超越していて、両方が入り混じった幽玄な空間世界が、「外科室」を、能楽のように見せてくれた。八方構えという、舞台を全包囲して、八方の視線にさらされた能楽堂の鑑賞様式を思わせたし、頭上にひとつだけ吊るされて灯った電球も、能舞台の篝火を想像させた。






「外科室」の原作の泉鏡花が、まだ小説家が蛇蝎の如く恐れられていたころの筆づかいでえがいた人間像を、かなり忠実に再現していたのが気に入った。

画師と、医学士の高峰と、貴船伯爵夫人を取り巻いて、鏡花の筆がまだ乾ききっていないような生臭さで跋扈する「紳士」と「壮佼 (わかもの)」が、原作の空気をいちばん吸いこんだ状態で、舞台に投げ込まれていた。この点は特筆しないといけない。『外科室』とならぶ鏡花の観念小説『夜行巡査』に登場する壮佼と伯父の姿やふるまいともシンクロする、明治時代の日本の蛇蝎じみた人間像を、演者がみな、いい声で命をふきこんでいて、彼等が「翳(かげ)」になったときに見せる、くらやみのなかで秘密な筆致の絵画が波打つような、まさに、能楽のうごきにそっくりな舞台空間の幽玄は、目を閉じれば永遠にみることができるほど。だれがどうとか、もはやそういうレベルではなかった。黒マスクに黒衣のあの衣裳が、照明と熔けあった、幾筋もの襞のつらなりがとてもカッコいい。
照明にてらされた白衣にうかびあがる、襞のつらなりと蕩けあいが訴えるのと同じか、それ以上に。



こんかいの公演は、ライブ感覚ではなく、配信映像としてみせる点にも着目できる。
映像としてみせるため、舞台の「導線」が整理されているのだ。

看護婦たちは、「外科室」のなかで、もっとも映像的なキャラクターとして、医学士の高峰と医学そのものに服従し、手術台の貴船伯爵夫人をふたりがかりでとりおさえる姿が、霞んだ絵姿で佇んでいる。夫人と高峰の死後に取り壊された病院とともに消えて去るのが、ふたりの幽玄的な清々しさにも見えていた。そして、あらゆる角度から女だったのがこの二人だ。もっともマスクの似合う白衣姿で手術台の左右に立っている。医学への服従の真実性と、「壮佼 (わかもの)」たちのセリフにもでてきた、くすぶって汚れ切った、芥塵か、蠢く蛆のすがたが重なり合って見える。おそらくこの重なり具合は栃木に行かないと見えないように思えてならなかった。
書き加えると、「壮佼 (わかもの)」「紳士」「翳」たちは映像が張り巡らす導線が無い状態、要するに実際に会場で観ていたときには、もっと雑然として、いくつもの瞬間のつみかさねをギラついて脈動させ、蛇蝎の生々しさが冴えわたっていた。



だがしかし、「外科室」は映像配信のちからによって、生々しさを飛び越える、幽玄世界を君臨させていた。

医学士の高峰と、御所人形のような貴船伯爵夫人との、天上の愛の証の、たった一度きりの「目くばせ」が、映像によって最大級のカタルシスを得たのだ。
私の客席からは、ふたりの目くばせの瞬間は観ることができなかった。観られた客が羨ましい。いいなあいいなあ笑 しかし。

だがしかし。

ふたりの「目くばせ」が、映像で強調されているのを観た時、正直もうしあげて、これは反則なんじゃないかと思った。
「目くばせ」は、映像ではなく、舞台のライブ会場でこそ、カタルシスとして開放させないといけないんじゃないのかと。
この点に関しては、いまこの瞬間に、こんなブログで「こうなんだよ!」と断言することはできない。映像配信の客(もちろん私もそのひとりだ)に、舞台に肉迫したカタルシスを、あるいは「舞台の臨場感以上の開放感」を捧げるためには映像でこそ、「目くばせ」を強調すべきなのだと、あの最も大事な場面のために、演出を集中させたのだということは、ハッキリと納得できるのだから。そして映像観劇者としては、納得できたので。
だけど、もっと他のやり方もあったんじゃないだろうかと、そんなわだかまりがくすぶっている。
「他のやり方」が、客の視点から引き出せないのも、もどかしく、悩ましく、そんなことも考えさせてくれるシーンだった。
「外科室」の舞台版を、会場と配信の両方で観られたのは、非常に幸福な体験だった。しつこいようだが目くばせのシーンを私は舞台上で見ていない。
会場で観た客の視点も、印象に盛り込んで書きたかったので、こういうことも書いてみた。





※そのに につづく※
https://lecorsaire.exblog.jp/28607629/

# by lecorsaire | 2021-05-21 00:00 | 公演

廻天百眼『不思議の国のアリス・オブザデッド』2



廻天百眼『不思議の国のアリス・オブザデッド』2_d0242071_18291189.jpg





で、舞台をみながら、メモを取っていた。

Mで始まっていた、
場面や小道具やハプニング(?)を見つけるたびにサラサラッと。






ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ



Ma
ま:

まっさかさま
(発狂を誘うほどの真っ赤な葡萄酒色のワンピースを纏ったアリスが、
無謀な逆さ落としでおちるおちるおちる、地下へ、地底へ、地獄へと、
底ふかくまでおっこちて、蜜の海にハマって犬神家状態になったり。)




まっくらやみ
(とにかく、暗転が多い舞台だった。
客を暗闇の森に閉じ込めてくる。ダンテの前進をうながすように)




マーブルホワイト
(料理女の帽子、エプロンとつながっている、白兎さんの全身。
ポスターで見るとグロっぽいテイストなのかと思いきや、ステージでは・・・・・
白兎は美男子ウサギに限る!と思い込んでいる
俺の胸中まんまんなかにストライクを打ち込んで悩乱させる美貌白兎が降臨。)




マシンガン
撃ちまくれ!弾切れなど!気に病まずに!!




マリア
聖母マリア。アリスのIQ膨張が伝染しピカソのような抽象画がかけるようになった、
アリス=レイシーの妹ティリーと姉のエルシー。
抽象画のベースになった具象絵画が糖蜜画に変質し、
ティリーとエルシーの絵筆からほとばしった、ふたりを導くボリスがツルハシをふるって姉妹を援ける。

ピカソの本名は
「パブロ・ディエーゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」
要約すると
小さな使徒よ お前は神が与えた人間である 神の恵みである
聖母マリアの救いである 渦巻く三位一体 それはキリスト教徒の戦いである
ツルハシ便利』。
妹ティリーと姉のエルシーはアリス=レイシーの背中に左右から、一対の翼となってひろがる。)




マーレボルジェ
(ダンテ『神曲』の地獄は擂り鉢状に渦を巻き、
下におりればおりるほど渦の円周が狭まって勢いが激しくなり、
深奥からは暴風が吹きあがってくる。
マーレボルジェの奥底、コキュートスから這い上がるロブ・ウォッキが歌う、
パペ・サタン・アレッペ」!
ロブ・ウォッキの背後には地の底の富の神プルートーが見える。
アリスオブザデッドの地下世界の富を狙って跋扈するキャラクターたちに、
悪魔との契約をせまり、富に呪いをかける。
呪いの儀式は暴風圏を客席まで拡大する、
キャラクターたちにはゾンビのエネルギーを授け、
客席の、ヴェルギリウスのいないダンテ達には
吟遊詩人の姿で前進をうながす、「恐れるな!」と。
震えがはしるカッコよさに圧倒!)



Mi
み:


( 人食い薔薇の体内には、
猛烈な濃さと甘さの蜜が充満してるのをあじわった。
蜜の魔術はステージの衣裳と化粧に、糖蜜画の輝きと、異形の造形美を授けた。
美術や衣裳はほんとすごかった。天上オペラの歌もダンスも凝縮された衣裳。
三月兎のふわふわが幸福の時間をねらって時計を止め、
ドードー鳥は神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の動物園から豪奢なペット服のまま抜け出してきて、
女王のあの衣裳一着だけで、何十人ものトランプの廷臣やロイヤルファミリー達を引き連れている。

ティリーとエルシーとボリスが暗色系のいでたちをシックなアクセントで、合唱でいうならテナー&バスパートのように装ってるのに対し、
三月兎、ドードー、女王はソプラノとアルトパートになって蜜の海を旋回)





Mu

む:



むくつけし
(レイシーが被っていた、
でっかい、むくつけしお面、
公爵夫人の手に抱かれた赤ちゃん、
サンドラとマールが運んでいた、きょだいな蛹。
いまにもふたりの手から離れて客席をのたぐりまわりそうなヴィジュアル。)        


骸の花園
(白い唇を、
赤く塗った、あるいは赤く塗らなかったゾンビの群れ)



むし 青虫
虫。本来「虫」と「蟲」は意味が違っており、蟲が英語のInsectを表すのに対し、「虫」は体の長い生き物をも指し蛇や蝮をも意味している。今回のアリスには原作にあった、アリスが蛇にように首が長くなるエピソードが登場しない。つまり青虫に、原作のアリスの長首が投影されているのだと思い及んだ・・・・・そんなふうに把握させてもらえる役作りで、衣裳や化粧も、虫の不敵さと呼応し、たっぷりと読み取らせてくれた)

むしむすめ
蟲。「むーしーむすーめーー」♪あの歌と振り付けのピコピコ感は最高だったぞ。サンドラ役の大島さん、上履き?をはいてたのかな。開演まえからテンションあげあげで、公演中ずっと観ててたのしかった。あと蠅の小公女マールが、青虫やサンドラと同じ緑いろの衣裳だったのも、むしの重厚感をよくとらえていて、観ていてテンションあがった。マール、いつかは魔王ベルゼバブに魔界転生する気満々)




無免許医
(おお宮田裕章せんせー、髪の毛をブラックに染めたか・・・・
ぢゃなくて、
スペードのジャック、
ブラックジャック先生。
女王様がピノコのかわりに助手やってるし、
そうか女王の愛の手かざしが絶対の治癒のちからを表しているから医師免許など必要ないわけだ。


「違うよ」

女王ヴィクトリアの大英帝国でアリスと並ぶ
歴史的有名人と言ったら

ジャック・ザ・リッパー。
その正体は医者だとか画家だとか。
手術あるいは絵を
成功・・・完成させるためなら
そのさなかに
モデル・・・・クランケが死んでしまっても構わない。

最強のヒーラーは
医者の次元をはるか越えた
女王
免許など必要としない。


それで、
これアドリブかも知れないだけど
女王様が、アリスを執刀するブラックジャックちぇんちぇーの助手になってた時、
眼鏡顔で、こういっていたように聴こえてしまった。
「ここをこうこうこうして、ここがこうこうこう」)




無垢
帽子屋は帽子づくりに用いる水銀で心身共に常軌を逸し、水銀に削り取られる命のともしびを握りしめ、
最高傑作の帽子と、それをかぶるにふさわしい者を探し続け、死者の地に降りても探求を続けていた。
帽子屋の情熱は帽子造りを絶対的中心にすえると魔法陣の星の角を無限に描いて拡散し、 童女愛、パパ活愛、金銭愛、美食愛、糖蜜愛・・・・
生前とは真逆のくらしに溺れても、帽子造りを怠らず、
ステージで帽子をかむっていないキャラたちに、眼にはみえない帽子をかぶせて歩く。 
ゾンビたちは彼を、マッドハッターと呼ぶようになった。
舞台が空いている時間には、その探求を果たせなかったのかもしれないが、きっと・・・





Me
め:

珍しい生き物
(ニセウミガメ、グリフォン、ドードー、サンドラとマール、そして公爵夫人が抱いていたブタ顔の赤ちゃん。
珍しい生き物は王侯への献上品だった。
そして彼等こそ、
権力の統治と夢を越えて
激昂せず、
暴力も使わずに君臨できる


超常の命だった。)



眼も綾な
(衣裳も小道具も、
地の精のドワーフが作った精緻な金細工のような女王のクラウンも、
人食い薔薇のかぶりものも、
華やかなものであれ、むくつけきものであれ、
手加減なしに凝りに凝ったものをたっぷり見せてもらった。)






Mo

も:

もう一度
うおぉぉぉぉ・・・・・、

今回の合唱、涙腺にピリピリ来た。
『幻想国家プラトニア』も、
ゾンビが徘徊する鬱屈な世界に、風穴がバンバン空く!!


あともうひとつの合唱曲も、掌にじんわりと汗を握りしめた。
時よ、止まれ!三月兎の手のなかで!
  時よ、動け!絶滅した記録の鎖から、ドードー鳥を解きはなて!!





もう一度、
捕まったら終わりだぞっ、
お願いっ、
お願いだから、
レイシーを捕まえないでくれよっ

アリスが
レイシーを捕まえず、

レイシーが、
アリスから走り切ることができて安堵した。


そして・・・・・・・・・・・・・



ロブ・ウォッキが歌う「パペ・サタン・アレッペ」!


もう一度聴けた!

再会!!! 
 






演者全員がバックにならんで『地獄のオルフェ』のフレンチカンカン! 

横一列の両端に、『神曲』のダンテもベアトリーチェも、『ファウスト』のゲーテもメフィストフェレスも並んでみえる!!


世界は狂っている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ







ところで、
不思議の国のアリスといえば、

そうだよ、

チシャ猫は??

あのマッドキャラクターは、いなかったのかな?





ちゃーんといました。
ステージ上ではなく、受付に。


猫耳をつけて、ニヤニヤしながらニコニコして。





ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ


# by lecorsaire | 2020-02-15 19:03 | 公演

廻天百眼『不思議の国のアリス・オブザデッド』1



虚飾集団 廻天百眼『不思議の国のアリス オブザデッド』を観た印象を書く前に、少々寄り道を。
昨年の6月に、 廻天百眼の『令和元年のシェイクスピア』を観たあと(観た直後は、いわばリアルマクベス的な事態の解決に忙殺されていたので余裕がなかった)、観ているあいだずっと『マクベス』と『ハムレット・マシーン』の二頭立て馬車に鞭をあてながら、『8時だョ!全員集合』のドリフのコントを猛烈に味わって感じていた事が、わかってきた!遅い!!!
マクベスが、マグダフに殺されずに、逆にマグダフをやっつけてしまう。ええっウソォ!?いつまで経っても死ねないマクベス。そしてラストの鬼気迫るセリフの大合唱のバックで、脳内めがけて、「盆回り」(ドリフのオチのテーマ→ https://www.youtube.com/watch?v=DYmMlhLEPJU)が押し寄せていた。そのことに、大分経ってから気が付いたのだ。



廻天百眼『不思議の国のアリス・オブザデッド』1_d0242071_10084186.jpg





廻天百眼って、凄い名前ですな。異形の詩的造形力が名前の内側でギラギラ煮えたぎってて。いやもう、ただただ敬服。

『不思議の国のアリス オブザデッド』を一言で言うなら、超マジな「ドリフのお化け屋敷コント」。
お化け屋敷のなかで、小さくなったり大きくなったりするのはキャラクターや彼らを取り巻く世界だけでなくて、場外乱闘型の演劇にのみこまれた、まず我ら「客分」に違いない。客席で、いつ敵が襲い掛かってきてもいいように・・・・・こんかいも、廻天百眼の公演では上昇するアドレナリンを、脳内拳銃のように左脇腹にしまって観に行った。



林檎酒と珈琲糖と牛乳とチョコレートをぜんぶ合わせたように美味しいすがたでEat MeとDrink Meを放言するレイシーが、最強の人食い薔薇に捕食された姿で登場し、開幕。
レイシーの周囲には大きなトランプのような5枚のカードが掲げられ、
「L」「A」「C」「I」「E」の順にならんでいる。
「A」「L」「I」「C」「E」の綴り替え。



レイシーは『不思議の国のアリス』のマッドティーパーティーのネムリネズミのおはなしに登場する井戸の中に棲む三姉妹のひとり。
レイシーと、ティリーとエルシーの三人姉妹は、糖蜜の井戸のなかに棲んで、絵を描くお稽古をしていた。
何を描いていたのかとアリスがたずねると、ネムリネズミの答えはこうだ。 
「Mで始まるものなら何でも」 と。


M がつくもの・・・・・・・舞台を観に行く前に、Mで始まる英単語から、舞台と関係あるに違いない単語をいくつかリストアップして観劇にそなえていたら、
全部『不思議の国のアリス オブザデッド』にでて来た。


Mad(気が狂った、無謀な、熱狂した

そして・・・・・

Manufacture(でっちあげる、捏造する)
Makeup(化粧、扮装)
Mercury (水銀)Mad HatterがMadになった理由のひとつが水銀で、帽子屋は、帽子の素材のフェルトを製造する過程で用いる水銀の猛毒をあびて中毒になり、気がふれてしまうという伝説にさらされていた。
Music (音楽) 西邑卓哲さんの音楽が、今回もよくまあここまで・・・と感激する素晴らしさで、お腹いっぱいになった。
Malice(悪意)
Mimic(偽の、模倣の、模擬の)偽ウミガメ、そして偽ウミガメの事がきっと大好きに違いない、偽ウミガメのためなら我が身を捨てて護るだろうグリフォンも、ニセモノだけが得ることができる詩的造形美の円周を、永遠に膨張させていた。ゆえにふたりは常に美しい立ち姿で視線をあびていた。   
Monarch (君主)女王と、そして公爵夫人。
Miracle(奇跡、驚異)
Money(ゼニ)パパ活されるMad Hatter、手術代がべらぼうなMad Doctor
Mystic(神秘主義)
Murder(殺人)


そして・・・・・・・・・
舞台を観に行く前にこの動画を見たら↓
https://www.youtube.com/watch?v=AgLUD3dAxtE
「ゾンビが2,000体出てくる(3:17ごろ)」
もしや客席に呪術師が?
呪術師と隣り合わせになる覚悟で、
いきなり隣りの席から、呪術師がじゅもんをとなえながら呪術の鍋をグラグラ沸かし、スパイスをビンごと振りまくる音がとどろくのを覚悟して行くと・・・・・  

舞台から、ぶんぶんぶん(スパイスをビンごと振りまくる音)そして怒声!と罵声!


呪術師????????

ではなくて・・・・・・
なにわえわみさんの、「料理女」と
湖原芽生さんの、「公爵夫人」。

『不思議の国のアリス オブザデッド』でいちばんコワかったペアーがこのふたり。
湖原さん、華麗な公爵夫人の衣裳とメイク(見もの!原作の公爵夫人の不穏さをガッチリ再現していた)で、手に抱いた赤ん坊を客席にブン投げて、それを受け止めちゃった(ラッキーな)お客さんに、(客サービスの)恫喝を食らわせてくるのではと覚悟してしまったし。
そしてわみさん、マーブルホワイトの帽子とエプロン(完璧デザイン)を纏い、全篇まったく無表情で料理鍋にかじりついて鍋の底から白い湯煙をもわもわ立ちのぼらせている。あの鍋のなかには・・・・・顔面蒼白のゾンビが?

twitterでも指摘されていたが、わみさんの歌唱力は凄い。マイクなし、あらゆる音響装置を拒絶する透明な歌ごえをふるわせると、舞台の空気がしっとりと変貌する。

ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ



ルイス・キャロルが「地下の国のアリス」を「不思議の国のアリス」に改題したのは、地下の・・・だと宝石や石炭をもとめて地下をさまよう冒険ミステリーを連想されることを煩わしがったからだというのだが、『不思議の国のアリス・オブザデッド』はというと、地下の国を、労働の国にしてひろげていた。

まるで広大な沙漠の底には井戸が覚醒し、井戸のなかを、油圧式のエレベーターが上下する。
まるで油水槽のなかにはプラトニアで造られた糖蜜がうごめき、エレベーターの床や壁面には、オッフェンバックのオペレッタ『地獄のオルフェ』とゲーテの『ファウスト』とダンテの『神曲』が楽譜や歌詞やセリフが書きつけられている。書きつけたのは地下におりていって大儲けしてやろうとたくらむ大山師、大詐欺師たちと、彼らを大いに「信じる者」たち。彼らは、生まれた国の社交界のティーパーティーで使われる高雅な言葉や毛並みの良い話術をどんどん簡略化して荒々しく用い、しかし言葉にこめられた魂を膨張させて書きつける。彼らの耳にはシラーの戯曲『ヴァレンシュタイン』のこんな感じの台詞が常になりひびく。「日の光は、共有財産だ。黄金は私有財産であり、それを手に入れるには地下の国へと降りて行って、悪魔と契約しなければならない。」ゲーテの美文に綴られたファウストが、トロイのヘレナを求め、かつてオルフェが通った道をたどって冥界へ降りていくのと、『地獄のオルフェ』で鳴り響くフレンチカンカンのステップがステージをチンプンカンにとびまわる舞台が、クラインの壺の中身みたいに同居し、壺をカクテルのシェーカーが覆っている。「4かける5は・・・」がレイシーの大量に飛び出してきた気がするんだが、「4かける5」は「しご(死後)」で、死後のゾンビ?そして、、、死後20?(※廻天百眼さんはこの舞台で20回記念だそうだが、それは関係あるのか?)


↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
以降も、こんな感じで書き続けるので悪しからず。





廻天百眼『不思議の国のアリス・オブザデッド』2につづく
https://lecorsaire.exblog.jp/27971726/
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ


ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ
ڰ☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰۣ—☸ڿڰۣ—*.☸ڿڰڿڰۣ



# by lecorsaire | 2020-02-12 20:31 | 公演

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite