我れ若し女帝の密使なりせば

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"東方の三賢人"

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きのうのクリスマスは、版画家の渡辺千尋(故人。東京に生まれ、長崎に育った。1995年に長崎県南島原市有家町からの依頼で16世紀末頃の銅版画とされる「セビリアの聖母」の復刻をおこなう)の回顧展がひらかれている、練馬区立美術館で、"東方の三賢人"、吉本大輔・高橋理通子・石川慶が、舞踏のゲリラ公演を毎度の如くやらかすという情報を仕入れたので、目撃者、体験者になりに行ってきた。



舞踏の体験者になり、時間をとめる奇蹟を起こす事ができた者たちが、舞踏に変容した広間を、あふれる涙をふりしぼって生んだ湿り気で満たした。



明かり取りのガラスが嵌った、天井のはるかな高さにむかって手をさしのべる、磔刑像のような吉本大輔。見上げると柱頭彫刻のぶらさがり天使像のような、石川慶が、ガラスのつばさを温めている。
聖母の名で島原を闊歩する伴天連の太夫のような高橋理通子が、残像が目に染みる豪奢なキモノを纏って、ゆっくりとあるいてくる。
練馬区立美術館の、一階広間を、天井まで、白塗りに染まった舞踏が、銀粉がまじったような、人種によっては猛毒になりうる、白塗りの芳香で占領するのを味わった。
とろけるようにゆっくり、時間が凍りついた。







ずっとずっと、このまま、時間がとまったっきり、動いてほしくない・・・・・・・と祈りつづけて、広場の石の床にへたり込んでいた。
舞踏に吹き降ろす、天井からのガラスの明かりが讃美歌を纏ってひろがっていく。



光の中心で、うたにつつまれ、舞踏が、三賢人が、神の祝福を顕す父と子と聖霊が、へどろの海面に浮かぶ大罪の船団を海水もろとも鯨飲する勢いの、火刑台をそびやかす。





これが、ことしの贈り物か。
あるいは、火の刑を宣告する金文字が。



お受けした。
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# by lecorsaire | 2013-12-26 16:52 | 公演

映画『瀕死の白鳥』

白鳥の羽毛の蒼白な衣擦れが、映画『瀕死の白鳥』の伴奏ピアノの音色に透けてざわめく。映画の舞台の露西亜帝都、聖ぺテルブルグのざわめきが、吐息が、ささやきがきこえてくる。
革命前夜の白夜にまどろむ深夜二時ごろのサロンや劇場につどう貴婦人たちの頸すじからこぼれて散る真珠だまのような音色が、ロシア指折りの舞姫で映画女優のヴェーラ・カラリの、カメラを前にバレエを踊ったあしもとに、或いは暗く、或いは熱っぽく、虹色の幻光を湛えて、しみわたる。



映画『瀕死の白鳥』は1917年に撮られた。監督は、小説家ドストエフスキーや詩人ベールイと並んで聖ぺテルブルグの比類ない美しさに魅せられて、ついにはこの白夜の帝都以外の場所で映画を撮らずに、1917年に天に召されたYevgeni Bauer エフゲーニー・バウエル。映画『瀕死の白鳥』が、彼のいわば、「白鳥の歌」になった。


柳下美恵さんのピアノ伴奏で、この映画を観ることが、今年一番の願いだった。
ひょっとしたら、この日12月14日に、会場の本郷中央教会に行けなかったらどうしよう?観られなかったらどうしよう? 聴けなかったら・・・・・そんな心配までしたほどなので、当日の午后一時頃に、少々つよい地震が起こったときには、電車の運休を妄想して「冗談ではない」と叫びたくなった-----------------------------


帝都ぺテルブルグのあちこちにあった、ロシア社交界の重要な場所である劇場の、豪華なムードが大好きだったエフゲーニー・バウエル。ゴシック建築のたたずまいが凛々しく幽玄な本郷中央教会の白い入り口に立ち、目線を空たかく羽搏かせると、冷たい、湖面のようなあおぞらに包まれてしまいたくなり、映画を観るまえの、現実からの飛翔感をたっぷりもらって、スクリーンが垂れた礼拝堂の、木の椅子に滑り込んだ。ここの木の椅子が大好きだ。まるで、時代を超える儀式のように、座ることができる。そしてこの日、教会は、豪華な劇場のまぼろしにつつまれる。

まるで精霊が語り、幽霊が歩む映画女優で、そしてなによりもロシア指折りの舞姫だったヴェーラ・カラリの祭壇とよぶのがふさわしいのが、映画『瀕死の白鳥』である。



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映画『瀕死の白鳥』にとってストーリーは、もはや重要では無いのだ。
バレエで白鳥の死をえがくイマジネーションが映画のカメラを詩の絵筆にする。
サン・サーンスのメロディーを、チェロとともに伴奏し、繙く詩の絵巻がバレエ『瀕死の白鳥』を、本郷中央教会のスクリーンを消滅させ、木の壇上に出現させる。
これは、触ったら感触を錯覚できる程のまぼろしなのだ。
トウシューズの音は、伴奏に、透かし彫りをえがいて聞えてくる。


ヴェーラ演じる啞の娘のバレリーナの前に、死に憑りつかれたひとりの画家が現れる。だれひとりも理解者も得られず、映画の客さえも、彼も笑い者としか見ようとしない。
画家のアトリエでポーズをとったまま、バレリーナが、画家に絞殺されると




画面いっぱいに、息をのむほどうつくしい、絵姿のような死顔が、まるで画布のようにひろがる。

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啞の娘が、恋人と筆談をすると、字幕が、手書き文字になって現れる。この恋人を演じたヴィトルト・ポロンスキーと、ヴェーラ・カラリは、1915年の映画After Death (これも監督がバウエル)でも共演をしていて、みたところ映画『瀕死の白鳥』と重複する面がいろいろあるので、この文を載せたらそう日が空かないうちに、なにか妄想めいた一文でも書いてみることにしたい。



本篇の上映前に、柳下さんと組んで伴奏をしたチェリストの新井さんが、バッハの無伴奏組曲の一部を弾き、サン・サーンスよりも感銘深く聴けた。
本篇の上映後に、柳下さんのピアノにあわせて、何か画面が映っていて面白かった(?)




去年にも増して、教会でのオープンカフェのコーヒーとタルトが美味しかった!!!
毎回、ちゃんとお礼も言わずにただ飲み食いしているだけの自分が恥ずかしい・・・・・・・・・・・・・・・・・








今年も、素晴らしい上映会をありがとうございました



✽✽映画『瀕死の白鳥』(←tumblrで紹介した公演宣伝)✽✽
2013年12月14日 ✽ 聖なる夜の上映会vol.7 本郷中央教会 ✽✽
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# by lecorsaire | 2013-12-16 00:23 | 映画

国際シンポジウム 「ダンヌンツィオに夢中だった頃―国際詩人の軌跡とMishimaが交わるとき」

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2013年11月2日(土)「ダンヌンツィオに夢中だった頃―国際詩人の軌跡とMishimaが交わるとき」たっぷり三時間強の、長丁場だった。

井上隆史さんの講演は、題目が「聖セバスチャン・コンプレックス-----ガブリエーレ・ダンヌンツィオ/三島由紀夫/デレク・ジャーマン」ひじょうに期待して、この講演にのぞんだのだが、聴いているうちに、「ああ、これはもう自分が知ってる話がほとんどだな!」と気が付いたので、ダンヌンツィオ文藝のもつ様式美、ビジュアルな力強い描写に、最も近い作家のひとりが三島であるという事、ダンヌンツィオについてのいままで知り得た知識の、再認識として聴かせてもらった。ダンヌンツィオの有名な長篇小説『死の勝利』にかぶれて、情死未遂を起こした森田草平や、筒井康隆(エッセイ『ダンヌンツィオに夢中』を書いた)の目から見たダンヌンツィオが語られ、話が三島由紀夫に及ぶと、ダンヌンツィオという「カード」が裏返されて、聖セバスチャンに変わる。処女作『仮面の告白』に何度も登場する聖セバスチャン、三島が翻訳したダンヌンツィオの大長篇戯曲『聖セバスチャンの殉教』。疎外感から解放される歓びを、三島はセバスチァンと、むすびつけた。社会のなかでの死が魂の救済となる逆説を、セバスチァンの殉教に視た。
そして終盤にデレク・ジャーマンが映画に撮った、ダンヌンツィオと直接には関係のない『セバスチャン』の話。話がデレク・ジャーマンまで来た時には既に講演の時間ギリギリになっていたのでほとんど聴くことができなかったのが残念だったが。





メインパネリストで、ヴィットリアーレ財団長のGiordano Bruno Guerriジョルダーノ・ブルーノ・グエッリ氏は、ダンヌンツィオの言う"La bellezza del futuro sarà calva."(ハゲこそ、未来の美しさだ。←やや意訳)を体現し、エリッヒ・フォン・シュトロハイムを彷彿とさせる、見事な禿頭(とくとう)の持ち主だった。ダンヌンツィオ晩年を象徴する大城塞「ヴィットリアーレ」の財団長としての誇りよりも、なによりダンヌンツィオが大好きな、ひとりの読書人として、ファンとして、ダンヌンツィオについて話すのがうれしくてたまらない印象を受けた。グエッリ氏の講演は終始、客席からのイタリア人達の笑いが絶えなかった。グエッリ氏が今回、講演のテーマに選んだのが、「革新の人」としてのダンヌンツィオだった。

ダンヌンツィオは、今風の民主主義的な人間では無かったが、驚くほどの未来志向の持ち主だった。「革新の人」だった。
それまで居なかった、スポーツ記者の元祖であり、ローマの歴史的な邸宅の保護・ボローニャの景観の保護(つまり「文化財の保護」)を提唱した。
広告の重要性にも着目している。ダヌンツィオは、自分がデザインした香水を自分のネームバリューでヒットさせようと目論んだ。もっとも彼の言う広告の重要性というのはまず自分自身の宣伝を第一に考えるものであって、ダンヌンツィオは、自分のイメージを広く世間に流通させるために、肖像画を描かせるだけでなく、大勢の写真家にポートレートを撮らせることを好んだ。オスカー・ワイルドやエルンスト・ユンガーと並んで、ダンヌンツィオはポートレートのもっとも多い文藝作家になっている。
反対にダンヌンツィオのネームバリューを、利用する者たちもいた。そういったひとびとのひとり、イタリア映画黄金期の映画監督でプロデューサーのジョヴァンニ・パストローネは、伝説の超巨大サイレント映画『カビリア』制作にあたって、イタリアにとどまらず、世界的な名声に支えられていた”文豪”、ガブリエーレ・ダヌンツィオを、映画の原作者に選定した。このころは、まだ監督や役者、スタッフというものが重要視されていなかったので、よっぽどの大女優でもでてこないかぎり、映画の評価や成功は、原作者の名前で決まったのである。
じつはダヌンツィオは、『カビリア』の原作も脚本も書いていない。それらはすべて、パストローネが書いたのである。 フィレンツェの古雅な自邸、ラ・カッポンチーナにおしよせる債鬼から逃れてパリに「亡命」していたダヌンツィオをパストローネは訪問し、監督兼プロデューサー兼脚本家はダヌンツィオに、5万リラの契約金と、「原作者として名誉が傷つかない事」を約束し、契約書のサインを手に入れた。
ダヌンツィオは、パストローネが持参した脚本に目をとおすと、タイトルを『火の物語』から、火からうまれた娘を意味する『カビリア』に変更し、字幕をみやびな擬古典風に改作し、登場人物もマチステ、クロエッサ(カビリアの乳母)、カルターロ(カルタゴの、モロク神殿の大神官)など、響き良く改名した。


ダンヌンツィオは文藝の世界でも、「革新の人」だった。二五歳で長篇『快楽』を上梓すると、"甘酒紅恋"というのか、その官能的なムードと、絵画的描写力の輝かしさが、世界にイタリア文学を、再発見させる事になった。ダンヌンツィオと同時代人で、同じようにもっとも革新的な作家であった、マルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスも、『快楽』の文体やディテールに感服した。

ダンヌンツィオが、義勇軍の統領としてフィウメ市を十六か月占領した際に、フィウメ市を統治するルールとなった「カルナーロ憲章」、この神秘的・・・・もとい進歩的な憲章は、多文化・多民族の融合を説き、学校は生徒たちが運営に参加し、工場も労働者たちが運営、イタリアでは二〇世紀後半まで認められなかった離婚の自由、観劇や音楽鑑賞の無料、ヌーディストやドラッグなどの全面解禁が許されていた。
しかしながらダンヌンツィオは、現実主義的な政治家としては、たとえばムッソリーニの対抗馬になりえるような、革新的な政治視点を、持っていなかった。フィウメでのダンヌンツィオは、司令官として閲兵する兵士たちひとりひとりのライフルの銃口に花を挿して喜んだ。ダンヌンツィオにとって武断による政治とは、名誉と武勲のうつくしさを讃える熱意の証明であり、それ以外の何物にも関心がなかったのかもしれない。第一次大戦でも、飛行部隊"La Serenissima"でウィーン上空を旋回し、爆弾のかわりに50,000 枚もの、自作の詩のビラを投下した。 20世紀初頭の第一次世界大戦に出陣したダンヌンツィオは、しかしルネサンスにマキャベリが登場するよりも以前の世界観のもちぬしであり、絢爛豪華な『死の勝利』を謳う戦争観はさながら鎧武者の馬上吟だった。


駐日イタリア大使、ドメニコ・ジョルジ氏が登壇すると、シンポジウムは、新しい空気に入れ替わった。飛行機マニアで、1920年にローマ=東京連続飛行を発案したダヌンツィオから、宮崎駿の最新作映画『風立ちぬ』へとはなしを、シフトさせる。ミヤザキ監督は、我が国の飛行史に、掛け替えの無い光を照らしてくださったのです・・・・・・・そして最後に、飛行機の名パイロットのごとく(大使閣下も映画Porco Rosso、『紅の豚』のファンでらっしゃる)話をローマ=東京飛行へと鮮やかに旋回させる。「2020年は、日本でのオリンピック開催の年であり、ローマ=東京連続飛行100周年の年でもあります。」この飛行計画が、イタリアと日本が共同で実現させた、世界的偉業である事を強調し、2020年の100周年を記念する一大イベントを祈念して、その講演をしめくくった。

終盤は、映画『風立ちぬ』の大ヒットに沸いた2013年の締めくくりであるかのように、「ローマ=東京飛行」、史上初の欧州日本間飛行に参加した、空軍士官アルトゥーロ・フェラリンの御子息Carlo Ferrarin氏のお話が、貴重なメモや、当時の記録映像とともに展開される。( La Tokyo University celebra Gabriele D'Annunzio ideatore del primo raid aereo Roma-Giappone← 画面にヴィデオが映るまでにやや時間がかかるが、シンポジウム終盤の様子が紹介されている。)

11機で飛び立った飛行隊は海岸線を沿って、バグダッド、カルカッタ、東南アジア、中国を経て飛ぶあいだにどんどん脱落し、東京の代々木練兵場へ着陸したのはたった一機、それがアルトゥーロ・フェラリンの飛行機だった。木と布でできた、安全性もなにも無い当時の飛行機で空を飛ぶことは、ダンヌンツィオの信条だった「危険を生きるという人生」のいわば究極の姿で、通訳を介しマイクから響くイタリア語と複葉機のモノクロ映像を見るうちに、『紅の豚』の空中戦シーンの音楽が頭のなかで自然と鳴っていた。
宮崎駿に、ローマ=東京飛行のドキュメンタリー映画を造ってほしくなった!!!!



イタリア人が綺羅星のように居並ぶ空間で、「ダヌンツィオ」が連呼される約3時間。まったく、夢みたいに楽しい一日でした。
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# by lecorsaire | 2013-12-14 12:10 | Gabriele d'Annunzio

Error:666ライヴ(於 池袋手刀 2013.10.19)


2曲目が、いままで一番死相がうずまいていた。盛り上がりの直後に、宇宙の墓穴が黒い穴をあける場面があちこち現れたので、吸い込まれそうになった。



Error:666が、音楽のブロックを何重にも積みかさねて石造りのピラミッドかジグラットを建てるライヴが今回、そのピラミッドの石組みが、インドのジャガーノートさながら(ヒンズー教のクリシュナ神像を積んだ山車のジャガーノートに轢き殺されれば天国に行けるので大勢のヒンズー教徒が身投げした)車輪を軋ませて動きだしたのに気付いて震えた。
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# by lecorsaire | 2013-10-20 19:32

『タリウム少女の毒殺日記』

この映画を観るまではいかなる理由でも死にたくなかったので『タリウム少女の毒殺日記』を傑作として観ることができた歓びは何にもまして、嬉しい。
試写での感想というやつが、・・・・猛烈に不快なヘイトムービーだとか今年最大の国辱映画だとか、前評判がやたらに挑発的で、・・・・youtubeでも観る事ができるアカラサマな挑発に満ちた予告篇と、予告篇とは本来べつものとして観なければいけない本篇の、・・・・倫理感への真っ向からの冒瀆にもかかわらず、小理屈を捏ね回してまで不愉快感を力説したくはならなかった。
蛙を、ばらばらに解剖するオープニングから、分厚い画面で、勁さのあふれる映画を撮ろうというスタッフと役者達の意思の頼もしさを嗅ぎ取った。
むっちりとした、画面映えする体格で女子高生を演じる倉持由香には、この子が出ている画面を、映画を、このままずっとずっと見続けていたいと思わせるような、目のちからのつよさと、きっぱりした笑顔のかがやきと、それでいて全篇を覆う不安の風穴そのもの、あるいは風洞の轟きの中心に屹立する、司祭の貫録が漲る。
この風穴のむこうに、今から数百年か早くて数十年後の、劇的に進化した肉体と精神が闊歩する世界がひろがっているのだ。劇中のだれもが新たなる世界に躊躇し、嘔吐寸前の不快感で行くのをためらうが、・・・・・・覗きたい衝動にかられる。少女に性的関心をおさえきれない中年教師も、「高校生少女のおねえさん」に馬乗りにされた電車通学の男子小学生も。
全身に、タトゥーとニードルピアスを鏤め性別を拒否するような剃髪剃毛の、透き通るような美声の妖婦が、「こちらの世界」に来ている。正体は美声だけの超物質体がヒトそっくりに変貌したのか。ふしぎなほどカメラの正面撮影に毫も臆せぬ。
インターネットに、あらゆる種類の観察動画、観察日記を投稿しつづける女子高生が、同級生から集団で性的にいじめられる姿(性と直結する儀式的な死と再生)まで観察動画にしてしまううちに、行きつくところまでいってしまって、母親に、猛毒(タリウム)を少量ずつ投与していきその変調の具合をネット(日記)に曝していく。観ていくうちに自然と、ピーター・グリーナウェイの映画『ZOO』(シャム双生児として生まれたあと分離した双子の生物学者が果物、魚類、動物の腐敗映像を撮りつくした最後に毒を嚥んで死んだ自分たちの腐敗する姿をカメラにさらけだし・・・・・・・1985年の映画)の凝りに凝った映像の奇怪動物園を連想した。『ZOO』のナレーションに確かこういうのがあった、「生命の誕生から終焉までを一年365日に例えるならば、人類の発生は12月31日の夕暮れの時刻である」
しかし『タリウム少女』は、もっと熱っぽく張り詰めている。監督の土屋豊が大好きなデレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』と同時上映してもらいたくなるほど、制服のまま光輝いて、海の上を歩む。
「物語なんて無いよ、プログラムしかないんだよ」しかし少女はやがて気づくのだ、進化した世界に行けば、われわれにはプログラムでしかない記号配列が、より高濃度な物語として、肉体と精神の喜怒哀楽をゆさぶってくるのだと。
少女が制服のまま、タトゥー美女が運転する蛍光ランプだらけの自転車の爆走につきあって二人乗りし高速道路を突っ走る。BGMのロックが奏でる八方破れの、・・・・・・・・・・何ちゅう爽快感!

この感想は未完だ。まだ一度しか観ていないこの映画に、まだまだ決着をつけたくは無い。船出したばかりの、未次元航行船の、処女航海に立ち会うことができて、今はただ感謝の気持ちしかない。
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# by lecorsaire | 2013-07-25 20:28 | 映画

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
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