我れ若し女帝の密使なりせば

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カテゴリ:映画( 17 )

デンマークジャズ × アスタ・ニールセン



 トーキョーノーザンライツフェスティバル2017のイベント「デンマークジャズ × アスタ・ニールセン」で、サイレント映画『バレーダンサー』『深淵 アビス』・・・デンマークの女優アスタ・ニールセンが1910年代に出演した初期作品と、 2016年製作のドキュメンタリー『アスタ・ニールセンを探して』を観てきた (2月8日 渋谷シダックス・カルチャーホール)。


 最初に上映されたのは『アスタ・ニールセンを探して』。映画監督のエヴァ・ティンド (Eva Tind Kristensen 画面に出てきた顔がずいぶん東洋人っぽいと思って調べたら、1974年に韓国の釜山で生まれ、デンマーク人の養女になった人だった) が、デンマークやドイツでアスタゆかりの人々をインタビューし、堂々たる人生に光をあてていく。アスタは1920年代ドイツのもっとも有名な映画俳優で、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスの妻マグダも彼女のファンだった。アスタはゲッベルスからナチの映画に誘われるが、きっぱりと拒絶した。カール・ドライヤーは、美少年映画『ミカエル』 にアスタを出演させようとして彼女に会いに行ったら、ファンの群に囲まれたアスタに怖れをなし、言葉もかけられず退散してしまった!
 アスタにまつわる品々も紹介される。ドイツで売られていた「アスタ・ニールセン」という名の高級タバコ、ファン達が競って狂恋をつづったファンレター。南米を旅行するアスタのプライベート写真帳には、動物と遊ぶ姿や、バスタブに浸かったきわどい写真まで残っている。どういうものなのかわからなかったが、新しい紙の便箋に、精緻なカラーインクでアスタを描いた絵手紙が登場し、息を呑んだ。ファンレターの一通だろうか。
 ただそういった映像とは別に、あまりよく意味がつたわってこないビジュアルイメージが繁出し、映画への没入感がやや削がれた。この監督はビジュアリストとしての自我が強いようで、晩年のアスタが、ゴシックな装身具や室内調度に囲まれて瞑想的な人生を歩んでいた姿をイメージして映像化したかったのかも知れないが、ピント外れな演出だったと思う。
 1968年に、アスタ・ニールセンがゴシックな内装の自宅で、アクセル・ストロビューからインタビューを受けるフィルム『 アスタ・ニールセン』があるが、今回のドキュメンタリーでは紹介されなかった。このインタビューを撮ってから約4年後に、アスタは亡くなった。


 今回の上映で一番興味深かったのは音楽。『アスタ・ニールセンを探して』のなかで、アスタが登場する映画のワンシーンがうつるたびに、ゴシックホラーめいた、伝奇的に緊張感をあおるような電子音が鳴り出すのだ。デンマークのジャズ奏者2人組が映画『深淵 アビス』 につけた音楽、というより鋭角的な刺激音の奔流が、ストーリーそっちのけで、アスタのビジュアルをひたすらフォーカスしていた。この2本では音楽が、アスタ・ニールセンのゴシッククイーンなムードにかしずいてるのだ。
 柳下美恵さんの、『バレエダンサー』 でのピアノ伴奏は対照的に、あくまでストーリー展開に仕える音楽だった。バレーダンサーが魅力的だが不実な男よりも純真な男を選ぶラストが、しかしながら可憐な野道から一歩足を踏みはずしたようなピアノの一音で・・・・End。


 刺激的な上映会だった。上映された順番は、『アスタ・ニールセンを探して』→『バレエダンサー』→10分ちょっとの休憩をおいて最後に『深淵 アビス』。

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by lecorsaire | 2017-02-09 18:15 | 映画

『王家の虎』(1916) 公開から100周年

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20世紀初期のどこか。ロシア貴族のナトカ・ボルコンスキ伯爵夫人は、さるパーティーの折、外交大使ジョルジョ・ラ・フェルリータにめぐり逢う。彼らのなれそめはジョルジョが彼女からとりつけたダンスの約束を、ある将校が横取りしたため起きた諍いである。ナトカは、自分が惚れているジョルジョと時を過ごしながら、身の上話を語る。
「ロシアでは、領地の猟場監督官をしていたドルスキーの愛人だったけれど、夫は暴君で嫉妬深くて、ドルスキーをシベリアに送ってしまったの。わたしはシベリアに行って、かれをさがしあてたけれどドルスキーは別の女といっしょだったわ。わたしはもう彼とかかわりあいをもたないことにしたのだけれど、ドルスキーは絶望して、拳銃で自殺したわ」
 ナトカはしばらくジョルジョに会わなかった。一方のジョルジョはというと、ナトカを愛していながらエルミーニアとも関係を育んでいた。
 数か月が経った。ジョルジョのまえに現れたナトカは重病を患っていた。クライマックスは豪華なオペラ劇場とホテルでのジョルジョとナトカとの、この世の際の逢瀬。その最中、ホテルで大火事がおこる。そこへナトカの横暴な夫が嫉妬を煮えくり返らせ登場、ホテルの部屋のふたりを外から鍵をかけて閉じ込めてしまう。しかしふたりは窓から飛び降りて脱出し、夫は炎のなかで息絶える。


監督:ピエトロ・フォスコ(ジョヴァンニ・パストローネ)
 原案:1873年に上梓されたジョヴァンニ・ヴェルガの『王家の虎』
 撮影:ジョヴァンニ・トマティス、セグンド・デ・チョモン
 出演:
ピーナ・メニケッリ(ナトカ・ボルコンスキ伯爵夫人)
アルベルト・ネポーティ(外交大使ジョルジョ・ラ・フェルリータ)
フェボ・マリ(猟場監督官ドルスキー)
ヴァレンティーナ・フラスカローリ(ジョル ジョの愛人エルミーニア)
ガブリエル・モロー(伯爵)
エルンスト・ヴァゼル(エルミーニアの父)
 制作:イタラ・フィルム(トリノ)
 日本公開:1919年4月

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『王家の虎』の原作は、1873年に上梓されたジョヴァンニ・ヴェルガの頽廃主義にも通じる小説である。シチリアの小説家は、自作の映画化に際し名前を明かすことを嫌がり、知り合いの女性の名義を用い、彼女の名がクレジットされることになった。
セット、衣装、そしてとりわけ小道具の意匠にはリバティ様式(イタリアのアール・ヌーヴォー)が用いられ、象徴的な意味をもつ。ダヌンツィオ的趣味に溢れた「上流階級もの映画」の典型である『王家の虎』は、ふたつの愛の物語(ナトカ伯爵夫人と外交大使ジョルジョ・ラ・フェルリータ、そして伯爵夫人とドルスキー)を語るが、伯爵夫人とドルスキーとの場面はフラッシュバックによって表現されている。いずれにせよ、そのどちらもが人間を情熱的で悲劇的なものとしてとらえており、ともすると倫理観を転覆させかねない契機を孕んでいる。細部にいたるまで大変魅力的なこの映画における、ピーナ・メニケッリの存在感は圧倒的である。 メニケッリは観客を弾きつける術にたけ、その情熱的で錯乱的な演技によって、もっとも崇拝された人気女優のひとりとなった。

(以上は、2001年 『イタリア映画大回顧』で上映された際のパンフレット文を、一部執筆者の趣味と判断で書き換えて転載した)
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by lecorsaire | 2016-11-29 23:16 | 映画

大正時代のサイレント映画『魔女(Häxan)』

この文は、去る2007年12月25日(火)に開催された、
☆☆Silent Cinema Night at Church vol.2
☆☆☆聖なる夜の上映会☆☆☆ をmixiで宣伝
した際にわたしが書いた宣伝文である。



クリスマスの夜、伝統ある教会でサイレント映画『魔女(Häxan)』を音楽伴奏付きで上映します。
『裁かるるジャンヌ』を撮った鬼才カール・ドライヤーの師、ベンヤミン・クリステンセン監督の最高傑作です。

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image source: The Phantom Blogger

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映画『魔女』は伝説的に奇っ怪不気味で、人々とオカルトサイエンスについて、神話と確信の歴史を例証するに七つの章を用いている。アニメーション、特殊効果、悪夢にみちたセット、冒瀆的な儀式の再現を駆使し(当時の映画では考えられない、天文学的巨額だった)、中世絵巻をとびこえるリアリズム・悪徳物語が展開される。その中心で悪魔を演じるのは監督のベンヤミン・クリステンセン自身のメーキャップ出演である。ちなみにクリステンセンは映画監督になる以前に、グノーの歌劇『ファウスト』で悪魔メフィストフェレスを演じた声学家であった。

クリステンセンは誕生して間もない映画が、ダヌンツィオばりのロマンス活劇ばかり扱った劇場演劇の延長か模倣であることを脱し、より実験的で学術考察性、刺激あふれる教条にみちた映画の可能性を追い、迷信に関する映画の、構想としては三部作の第一部に映画『魔女』を企画した。
クリステンセンは、オカルトについての大量な図像、映像を、観客への講演として提示する。
「魔王は、中世や暗黒時代においては日常の片鱗にうごめいていたが、彼は今日なおも我々のそばにいる」監督のベンヤミン・クリステンセンは、前述の悪魔扮装とはべつに彼自身の素顔と現代装束で登場し、観客に語る。「"死せる中世"などという妄言を信じてはいけない。新しい服を着替えるためだけに、ひとはわざわざ死んだりするだろうか?」

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ストーリーの根幹は、現実と神話を、十五世紀ヨーロッパに投げ込む。ドイツの表現主義に匹敵する、エネルギーにあふれ大胆不敵な場面が横溢する。死体泥棒や魔女たちの物慾、心地よい堕落の夢をみせる悪魔は金貨の雨を降らせて恍惚となる。魔女は悪霊と交わり、十字架に痰と唾を吐きつけて、踏みつぶして、ヒキガエルと死んだ赤ん坊から醸造酒を偽造する。
異端審問官による魔女裁判は綿密な時代考証によってまさしく当時の典型例が描写される。さまざまな拷問道具のリアルな再現。クリステンセンは、クローズアップを巧みな使用によって、拷問のむごたらしさが暗黒歴史への、観る者の開眼をうながす意図をこめている。

ストーリーを構成する、時間年月の変転と、悪徳美に染まったスチール写真には、効果的で革新的な技術へのクリステンセンの野心がこもっている。
彼は『魔女』の成功を信じて疑わなかった。

この映画は既に柳下美恵さんのすばらしい伴奏で、極上画質の、国内DVDが発売されておりますが(DVD特典の、小松弘氏と大塚真琴氏による解説は名文である)、上映機会が極めて少ないこの映画が、今回はフィルムで上映されることによって、濃厚な中世の香りがいっそう引きたつと存じます。
これを観れば、ゆく年も来る年も、もう怖くありません。

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☆☆Silent Cinema Night at Church vol.2
☆☆☆聖なる夜の上映会☆☆☆


雷上映作品:『魔女』Häxan雷  
1921年/スウェーデン/モノクロ/約90分 /日本語字幕付/8ミリフィルム
監督・主演:ベンヤミン・クリステンセン

こんかいはゲスト奏者に、中世やルネサンス音楽に造詣が深く、自ら楽器製作も手がける近藤治夫氏をお迎えいたします。


2007年12月25日(火)19:00開映(18:30開場)

出演 
近藤治夫(kondo haruo):古楽器 
柳下美恵(yanashita mie):鍵盤楽器

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会場http://www9.ocn.ne.jp/~hongo189/
日本キリスト教団 本郷中央教会 東京都文京区本郷3-37-9 電話03-3811-3500
1)都営大江戸線、営団丸ノ内線ともに「本郷三丁目駅」下車。本郷三丁目駅交差点から春日通りを湯島方面に右側を歩き1分。
2)営団千代田線「湯島駅」下車。春日通り本郷方面に徒歩7分。
**本郷消防署の斜め向かいの、ゴシック様式の白い教会**
※駐車場はございませんのでお車でのお越しはご遠慮願います
暖かい格好で お越し下さい


料金2000円(250席までご用意しております。ご予約なしでご覧になれます) 











そして、当日の上映会の感想が、
これだ. 

HAXAN! (映画『魔女』1921年)
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by lecorsaire | 2014-12-11 16:31 | 映画

イゴ・スム 或る俳優のアグリービューティーな生涯

2014年に「フィルムアルヒーフ・オーストリアの無声映画コレクション」(於フィルムセンター 11月11日~16日)でも上映された映画『カフェ・エレクトリック』にイゴ・スムは娼婦に惚れられるエンジニアの役で出演した。


イゴ・スム(Igo Sym 1896 -1941)  ポーランド系オーストリア人俳優。オーストリア=ハンガリー帝国時代のインスブリックにうまれる。
第一次世界大戦ではハプスブルグ帝国の中尉になり、のちにポーランド軍でも中尉として勤務。
1925年に映画デビューし、ポーランド、オーストリア、ドイツのサイレント映画で、上品な紳士や貴族、陸軍士官の役を演じる。1927年に、マレーネ・ディートリッヒの主役映画『カフェ・エレクトリック』に出演した。1930年代の初めにイゴ・スムはポーランドに戻り、ワルシャワに定住した。ワルシャワでは活動を、映画から、劇場での舞台に転向し、歌やダンス、のこぎり楽器の演奏までおこなった。

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source: Śmierć zdrajcy

※このブログで書かれているイゴ・スムの生涯はwikipediaの英語版から全面的に引き写したものである事を、あらかじめおことわりしておく。



イゴ・スムは、ポーランドに定住したあとも、ドイツ贔屓で有名だった。

youtube: IGO SYM in Poland - Beautiful and Damned !  
(映画Im Kampf mit der Unterwelt (1930) の挿入歌、コンチネンタルタンゴ Ich träum' vom ersten Kuß.  ドイツ語の美声を披露。 )

1939年に、ポーランドはナチに占領される。イゴ・スムは総督府の後ろ盾を受け、ワルシャワの主要劇場の監督職を兼任すると同時に、ゲシュタポのために多大な協力を行なう。
イゴ・スムはポーランド映画界および劇壇を掌握する野心にかられていたふしがある。彼とゲシュタポとの関わりは1939年9月1日のポーランド侵攻以前に遡るものだったらしい。サイレント映画時代からイゴ・スムと共演していたハンカ・オルドヌヴナは、イゴ・スムが助力したゲシュタポの罠にかかり、逮捕されている。




1941年10月10日、映画『帰郷』がベルリンの映画館「ウーファー・パラスト・アム・ツォー」で上映された。監督は『カフェ・エレクトリック』のグスタフ・ウチッキー。
イゴ・スムは映画には出演していないが、その制作にあたって活発に協力する。ポーランド人を侮辱する内容のナチの国策映画で、幾人ものポーランド名優たちが出演を拒否した。
イゴ・スムの傘下にあったワルシャワの「テアトル・コメディア」の俳優たちは、ゲシュタポのエージェントの俳優イゴ・スムを反対にスパイするようになる。彼の動向は、レジスタンスに密告された。



1941年3月7日、ワルシャワのマゾヴィエツカ通り10番街にあるイゴ・スムの住居のドアに、2人の暗殺者が、電報の配達夫に扮して訪れた。この翌日にイゴ・スムはウィーンに向かう予定だった。
ドアが開き、現れたのが、間違いなく標的であると確認した暗殺者たちは、自動拳銃ラドムVISで、ナチの協力者の息の根をとめた。
「テアトル・コメディア」の俳優Roman Niewiarowicz はハンカ・オルドヌヴナの逮捕の裏にイゴ・スムの暗躍をかぎつけて以来、イゴ・スムへの復讐心をかきたてていた。暗殺の日取りも、彼の密告が決め手になった。
レジスタンスは当初イゴ・スムを毒殺するつもりだったが、より即効的な銃撃に変更された。
イゴ・スムの弟のエルンストは化学者で、ポーランドが占領されるとレジスタンスに参加し、破壊活動で使う爆薬を密造した。


イゴ・スムの死は、総督府によって翌日には街頭のスピーカーで伝えられ、午后8時から午前5時までの夜間外出禁止令が出されると、ワルシャワ地区行政長官ルードウィヒ・フィッシャーは、イゴ・スム殺害の実行犯、ならびにその協力者全員の自首を脅迫するポスターを貼りだした。
すべての劇場は閉鎖され、120人が人質として逮捕された。フィッシャーは、イゴ・スムの殺害者が3日以内に自首して出ない場合、大学教授・医者・弁護士そして俳優を含めた人質全員を殺害すると脅した。

3月11日に、人質のうち、21人が、ワルシャワ郊外の村パルミリで、処刑された。




イゴ・スムの暗殺に対する報復措置が、後の「AB行動」として本格化されるポーランド人大量殺害の火付け役のひとつになった可能性がある。
ステファン・ヤラチレオン・デ・シルデンフェルド・シレルを含む人質の残りは、アウシュヴィッツへと送られた。
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by lecorsaire | 2014-12-03 13:14 | 映画

サイレント映画『ばらの騎士』

1926年の作品で、リヒャルト・シュトラウスのオペラ(1911年初演)の、映画バージョン。以前から、スチール (←画像あり)でみてひじょうに綺麗なのを知っていたので、これは絶対観なければと興味津々で、フィルムセンターに足を運んだが観終わって、茫然となった。
『ばらの騎士』を愛するオペラファンにとっては、無理に観る必要はまったくない映画だった。

この映画を観た客が、オペラの『ばらの騎士』を聴きに来ることへの、期待がこめられていたらしく、ウィーンの庭園や、ハプスブルグ家のベルヴェデーレ宮殿などで歴史的ムードたっぷりに、絢爛豪華に撮影されたのは結構(衣裳なんか、昨今のオペラ『ばらの騎士』での衣装など足元にも及ばないような精緻かつ重厚なデザイン。ほんとうなら、カラーで観たかった)だが、映画としては?というと、これが、印象に残るものが、全然なかった。
監督は『カリガリ博士』を撮った名匠ロベルト・ヴィーネなのだが、特筆点はまったくなかった。
ストーリーは、オペラとは全然違っていた。フーゴー・フォン・ホフマンスタール(オペラの原作者。ウィーン世紀末耽美を代表する詩人で小説家で劇作家。映画版『ばらの騎士』も、かれがシナリオを書いているが、乗り気ではなく、中途半端なシナリオで書きやめた)は、映画版『ばらの騎士』に、かなりの不満をもっていたらしい。

映画のなかに、原作には登場しない「元帥」が登場。(字幕では「公爵」と表記。)これが原作とは比較にならない壮年の、威厳は足りないがまあまあ美丈夫で、大部隊を雄猛に指揮して勝利にみちびく。彼は戦場の陣幕で、妻の元帥夫人(字幕では「公爵夫人」)の不倫を知り、凱旋の余韻もふりはらい早馬で屋敷にかけつける。仮装舞踏会でひしめく屋敷の庭園で、姦夫オクタヴィアンをとらえ、決闘におよぶ・・・・・・・もう原作オペラの、おっとりしたムードぶちこわし。これで面白ければそれなりに楽しめるんだが、面白くなかった。

オックス男爵も、遊蕩貴族だがどこか憎めない「グラマー爺」だった原作のすがたが、霞んで見える。
ゾフィーは、可愛くて良かった。婚礼ドレスを纏うまえに、貴婦人の歩き方をダンス教師からレクチャーされるシーンはいかにもゾフィーにふさわしかったし、映画の中でも一番きれいなシーンだった。
オクタヴィアンが、美男俳優ジャック・カトラン。「ズボン役」(女性歌手が演じる男役。エレガント。)のオクタヴィアンを、オトコがやってた。もちろん、例の女装も。ただただ気持ち悪い。
元帥夫人(公爵夫人)も、エリーザベト・シュヴァルツコップには到底およばなかった。

べつに悪口ばっかり書くつもりはないんだが、映画で使われていた音楽、サイレント映画なのだが、サウンド版で、全篇に絶え間なく『ばらの騎士』のメロディーが流れていたが明らかに、映像と噛みあっていない。音楽が鳴る度に、音楽につけられたオペラの名場面が頭に浮かんでは、目の前の映像と衝突する。
この映画を観た客が、オペラの『ばらの騎士』を聴きに行くことをためらったら、これほど悲しい話は無い。


『ばらの騎士』映画版がドレスデンで上映された際、オペラの曲を編集して作った伴奏音楽を、リヒャルト・シュトラウスが指揮し、ロンドンで上映された際にも、劇伴をリヒャルト・シュトラウスが指揮し、その翌日に劇伴の一部が録音された。
Strauss Conducts 'Der Rosenkavalier' (←その1)
Strauss Conducts 'Der Rosenkavalier' (←その2)
こんかい使われたのは、明らかにこの録音ではなかった。



蛇足を申し伝えると、映画を観るまえに、ディスクユニオンで「サロン・オーケストラ版」と称する、"無声映画『ばらの騎士』のための音楽" を買った。2枚組。
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編成は、
フルート2本
オーボエ2本
トランペット2本
トロンボーン1本
第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリン
チェロとバスが一本ずつ
打楽器とピアノが一人ずつ
ハーモニウム(リード・オルガン)が2台


このCDを、全部聴いたら、感想を書き足す。
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by lecorsaire | 2014-11-14 22:41 | 映画

映画『瀕死の白鳥』

白鳥の羽毛の蒼白な衣擦れが、映画『瀕死の白鳥』の伴奏ピアノの音色に透けてざわめく。映画の舞台の露西亜帝都、聖ぺテルブルグのざわめきが、吐息が、ささやきがきこえてくる。
革命前夜の白夜にまどろむ深夜二時ごろのサロンや劇場につどう貴婦人たちの頸すじからこぼれて散る真珠だまのような音色が、ロシア指折りの舞姫で映画女優のヴェーラ・カラリの、カメラを前にバレエを踊ったあしもとに、或いは暗く、或いは熱っぽく、虹色の幻光を湛えて、しみわたる。



映画『瀕死の白鳥』は1917年に撮られた。監督は、小説家ドストエフスキーや詩人ベールイと並んで聖ぺテルブルグの比類ない美しさに魅せられて、ついにはこの白夜の帝都以外の場所で映画を撮らずに、1917年に天に召されたYevgeni Bauer エフゲーニー・バウエル。映画『瀕死の白鳥』が、彼のいわば、「白鳥の歌」になった。


柳下美恵さんのピアノ伴奏で、この映画を観ることが、今年一番の願いだった。
ひょっとしたら、この日12月14日に、会場の本郷中央教会に行けなかったらどうしよう?観られなかったらどうしよう? 聴けなかったら・・・・・そんな心配までしたほどなので、当日の午后一時頃に、少々つよい地震が起こったときには、電車の運休を妄想して「冗談ではない」と叫びたくなった-----------------------------


帝都ぺテルブルグのあちこちにあった、ロシア社交界の重要な場所である劇場の、豪華なムードが大好きだったエフゲーニー・バウエル。ゴシック建築のたたずまいが凛々しく幽玄な本郷中央教会の白い入り口に立ち、目線を空たかく羽搏かせると、冷たい、湖面のようなあおぞらに包まれてしまいたくなり、映画を観るまえの、現実からの飛翔感をたっぷりもらって、スクリーンが垂れた礼拝堂の、木の椅子に滑り込んだ。ここの木の椅子が大好きだ。まるで、時代を超える儀式のように、座ることができる。そしてこの日、教会は、豪華な劇場のまぼろしにつつまれる。

まるで精霊が語り、幽霊が歩む映画女優で、そしてなによりもロシア指折りの舞姫だったヴェーラ・カラリの祭壇とよぶのがふさわしいのが、映画『瀕死の白鳥』である。



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映画『瀕死の白鳥』にとってストーリーは、もはや重要では無いのだ。
バレエで白鳥の死をえがくイマジネーションが映画のカメラを詩の絵筆にする。
サン・サーンスのメロディーを、チェロとともに伴奏し、繙く詩の絵巻がバレエ『瀕死の白鳥』を、本郷中央教会のスクリーンを消滅させ、木の壇上に出現させる。
これは、触ったら感触を錯覚できる程のまぼろしなのだ。
トウシューズの音は、伴奏に、透かし彫りをえがいて聞えてくる。


ヴェーラ演じる啞の娘のバレリーナの前に、死に憑りつかれたひとりの画家が現れる。だれひとりも理解者も得られず、映画の客さえも、彼も笑い者としか見ようとしない。
画家のアトリエでポーズをとったまま、バレリーナが、画家に絞殺されると




画面いっぱいに、息をのむほどうつくしい、絵姿のような死顔が、まるで画布のようにひろがる。

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啞の娘が、恋人と筆談をすると、字幕が、手書き文字になって現れる。この恋人を演じたヴィトルト・ポロンスキーと、ヴェーラ・カラリは、1915年の映画After Death (これも監督がバウエル)でも共演をしていて、みたところ映画『瀕死の白鳥』と重複する面がいろいろあるので、この文を載せたらそう日が空かないうちに、なにか妄想めいた一文でも書いてみることにしたい。



本篇の上映前に、柳下さんと組んで伴奏をしたチェリストの新井さんが、バッハの無伴奏組曲の一部を弾き、サン・サーンスよりも感銘深く聴けた。
本篇の上映後に、柳下さんのピアノにあわせて、何か画面が映っていて面白かった(?)




去年にも増して、教会でのオープンカフェのコーヒーとタルトが美味しかった!!!
毎回、ちゃんとお礼も言わずにただ飲み食いしているだけの自分が恥ずかしい・・・・・・・・・・・・・・・・・








今年も、素晴らしい上映会をありがとうございました



✽✽映画『瀕死の白鳥』(←tumblrで紹介した公演宣伝)✽✽
2013年12月14日 ✽ 聖なる夜の上映会vol.7 本郷中央教会 ✽✽
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by lecorsaire | 2013-12-16 00:23 | 映画

『タリウム少女の毒殺日記』

この映画を観るまではいかなる理由でも死にたくなかったので『タリウム少女の毒殺日記』を傑作として観ることができた歓びは何にもまして、嬉しい。
試写での感想というやつが、・・・・猛烈に不快なヘイトムービーだとか今年最大の国辱映画だとか、前評判がやたらに挑発的で、・・・・youtubeでも観る事ができるアカラサマな挑発に満ちた予告篇と、予告篇とは本来べつものとして観なければいけない本篇の、・・・・倫理感への真っ向からの冒瀆にもかかわらず、小理屈を捏ね回してまで不愉快感を力説したくはならなかった。
蛙を、ばらばらに解剖するオープニングから、分厚い画面で、勁さのあふれる映画を撮ろうというスタッフと役者達の意思の頼もしさを嗅ぎ取った。
むっちりとした、画面映えする体格で女子高生を演じる倉持由香には、この子が出ている画面を、映画を、このままずっとずっと見続けていたいと思わせるような、目のちからのつよさと、きっぱりした笑顔のかがやきと、それでいて全篇を覆う不安の風穴そのもの、あるいは風洞の轟きの中心に屹立する、司祭の貫録が漲る。
この風穴のむこうに、今から数百年か早くて数十年後の、劇的に進化した肉体と精神が闊歩する世界がひろがっているのだ。劇中のだれもが新たなる世界に躊躇し、嘔吐寸前の不快感で行くのをためらうが、・・・・・・覗きたい衝動にかられる。少女に性的関心をおさえきれない中年教師も、「高校生少女のおねえさん」に馬乗りにされた電車通学の男子小学生も。
全身に、タトゥーとニードルピアスを鏤め性別を拒否するような剃髪剃毛の、透き通るような美声の妖婦が、「こちらの世界」に来ている。正体は美声だけの超物質体がヒトそっくりに変貌したのか。ふしぎなほどカメラの正面撮影に毫も臆せぬ。
インターネットに、あらゆる種類の観察動画、観察日記を投稿しつづける女子高生が、同級生から集団で性的にいじめられる姿(性と直結する儀式的な死と再生)まで観察動画にしてしまううちに、行きつくところまでいってしまって、母親に、猛毒(タリウム)を少量ずつ投与していきその変調の具合をネット(日記)に曝していく。観ていくうちに自然と、ピーター・グリーナウェイの映画『ZOO』(シャム双生児として生まれたあと分離した双子の生物学者が果物、魚類、動物の腐敗映像を撮りつくした最後に毒を嚥んで死んだ自分たちの腐敗する姿をカメラにさらけだし・・・・・・・1985年の映画)の凝りに凝った映像の奇怪動物園を連想した。『ZOO』のナレーションに確かこういうのがあった、「生命の誕生から終焉までを一年365日に例えるならば、人類の発生は12月31日の夕暮れの時刻である」
しかし『タリウム少女』は、もっと熱っぽく張り詰めている。監督の土屋豊が大好きなデレク・ジャーマンの『ラスト・オブ・イングランド』と同時上映してもらいたくなるほど、制服のまま光輝いて、海の上を歩む。
「物語なんて無いよ、プログラムしかないんだよ」しかし少女はやがて気づくのだ、進化した世界に行けば、われわれにはプログラムでしかない記号配列が、より高濃度な物語として、肉体と精神の喜怒哀楽をゆさぶってくるのだと。
少女が制服のまま、タトゥー美女が運転する蛍光ランプだらけの自転車の爆走につきあって二人乗りし高速道路を突っ走る。BGMのロックが奏でる八方破れの、・・・・・・・・・・何ちゅう爽快感!

この感想は未完だ。まだ一度しか観ていないこの映画に、まだまだ決着をつけたくは無い。船出したばかりの、未次元航行船の、処女航海に立ち会うことができて、今はただ感謝の気持ちしかない。
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by lecorsaire | 2013-07-25 20:28 | 映画

Lucrezia Borgia (1922)

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1922年の映画『ルクレツィア・ボルジア』の一場面だが、十字架におののくようなこの病的オトコは、『カリガリ博士』で眠り男チェーザレを演じた怪優(名優)コンラート・ファイトの、チェーザレ・ボルジアである。


チェーザレ(眠り男のほうではなく)は、ボルジア一族という歴史における敗残者でありながら、容貌魁偉なイタリア美男として肖像画が残って居ることから、彼らの敵対者たちもチェーザレが美男であるという点には一目置かずにいられなかったに違いない。


しかしチェーザレの、屈折した内面を如実に外面化させた役者というと、コンラート・ファイト(当時は美男俳優として認められていた)演じるチェーザレ・ボルジアが、一番凄い。


ギリシャ彫刻的に完璧な容貌に、ときおり悪魔的な翳が差し、眼が惨忍な光を湛える。権力の階段を踏み上がる一歩ごとに、神を真似て造られた人間の姿をささえる霊肉の均衡は強烈な振動を轟かせる。
だがそんな悪魔性は、限りなく脆い。脆弱すぎるほど脆弱だ。
「小さな悪魔、その名は権力欲。」
小さいものだから、空いた小腹の中にかかえこみやすいアクマを、妄想の中で肥大させてしまうオトコとして、チェーザレの妄想力は頭に馬鹿がつくほど巨大だった。
ルネサンスの輝きはその光の勁さゆえにより濃くなる影との双子座の物語。



コンラート・ファイト演じるチェーザレは眠っていても戦場を睨んでいても、カリガリ博士と法王アレクサンデル六世をバックにした、世界制覇の野心に微睡んでいる。
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by lecorsaire | 2013-07-04 17:14 | 映画

映画『嘲笑』

映画『嘲笑』 
(1927年のサイレント映画なので、会場のピアノで伴奏曲を演奏。アメリカ映画。ベンヤミン・クリステンセン監督 ロン・チェイニー バーバラ・ベットフォード リカルド・コルテス) 



農婦に身をやつしたロシアの伯爵夫人タチアナ(バーバラ・ベットフォード)は森をさまよっていると、セルゲイ(ロン・チェイニー)と出会う。共産主義革命から発したロシア内戦 による荒廃まっただなかのシベリアで、革命勢力の赤衛軍に抵抗する、帝政主義陣営の白衛軍が拠点をかまえるノヴォクルスクへのメッセージをたずさえたタチアナは、貧乏で頭の単純なセルゲイに、ノヴォクルスクへの案内を頼む。二人は夫婦のふりをし、いたる所で野営する赤衛軍兵士の網の目をくぐって、森に潜伏し、前進をかさねる。 その間セルゲイは、天使画のようにうつくしいタチアナにたいし献身を尽くす。
人気のない小屋をみつけ一息ついたところを、敵につかまってしまった。貴族を血祭りにあげることしか頭に無い赤衛軍は、私たちは農民の夫婦だと言い張るタチアナに、いいや貴婦人のように肌の白い美女がこんなばかと結婚しているはずがないと鼻にもかけず、手始めにセルゲイを拷問の鞭打ちにして瀕死にいたらしめるのだ。ロシア国歌まじりの勇壮な伴奏ピアノにのって白衛軍の騎兵部隊がとんでくる。赤衛軍は逃走し、ノヴォクルスクの白衛軍司令部に招かれメッセージを届けたタチアナは、アレクサンドロヴァ伯爵夫人として貴族将校たちから最上の礼をつくされる。白衛軍騎兵隊を指揮する勇敢なディミートリー大尉(リカルド・コルテス)も、農民娘の格好をしていたタチアナにはじめこそ軽々しい(字幕→ "どうしてしゃべらないの?唖なの?だったら、手振りでもしてごらん" サイレント映画ならではの演出)が、彼女の地位と気品の高さに気づき騎士のように敬服する。重症だったセルゲイは、病院で手当てをうけて回復した。 タチアナは、内戦で大儲けしたノヴォクルスクの新興成金ガイダロフ氏の邸宅の賓客になると、 セルゲイのことを、昔からの大切な友達のように思って、邸宅の台所を世話する下男のひとりとして雇わせる。

しかし頭の弱いセルゲイは、邸宅の門番イヴァンの、貧相な気性に凝り固まった口車にのせられてしまう。貴族たちが革命軍を討伐して古い時代を取り戻したら、タチアナはすぐにでもセルゲイを疎ましく遠ざけるだろうと。ディミートリー大尉がタチアナにキスしているのをみたセルゲイはイヴァンの言葉をいっそう信じるようになり、悲しみから、次第に貴族や金持ちを憎むようになっていく。
白衛軍は、支配地域をおびやかす赤衛軍との決戦をかけて、ノヴォクルスクの全軍で出撃する。タチアナはディミートリー大尉との別れを悲しみ、街は非武装地帯になる。地下にこもった革命運動家や赤衛軍のシンパ達はにわかに活気づいていく。貴族に媚びを売って増長したガイダロフ氏の雇われ人たちは邸宅の執事も使用人もみんな革命陣営に同調しはじめる。今やすっかり意気投合したセルゲイとイヴァンなどは、ガイダロフ氏とっときの地下蔵の銘酒に手をつけておおいに酔っぱらう。
調度品も絨毯も贅沢品でしつらえた二階での晩餐に、タチアナを招いたガイダロフ氏の妻は、呼び鈴で何度も使用人たちを呼ぶが誰もこない。たまりかねた成金夫人は部屋をとびだし階段のうえから使用人たちに、侮辱に漲ったどなり顔をたたきつけるが、ぼろ靴で階段をあがってきたセルゲイ(「千の顔を持つ男」の異名ロン・チェイニーが変顔を駆使する名場面)に、たっぷりと逆襲される。もうお前みたいなトド婆あの言いなりには真っ平だ・・・・・。

間もなくノヴォクルスクは赤衛軍の大部隊に包囲される。街を捨てて逃げる貴族たちとともにガイダロフ氏夫妻も邸宅から逃亡するが、晩餐に招かれていたタチアナは、ひとり置き去りにされてしまう。
ここからが、タチアナの毅然と張り詰めたうつくしさが・・・・・晩餐で煙草を喫むしぐさもキマっていたが、いよいよ見ものになってくる。かねてからのタチアナへの劣情を発散させようと意気込むイヴァンはセルゲイの怒りをかい、邸宅に押し入った赤衛軍兵士数人ともども地下室に閉じ込められてしまう。悠然と闊歩して二階へ上がっていくセルゲイ。しかし一旦うえつけられた貴族階級への憎しみと嘲笑は簡単に捨てきれない。セルゲイはタティアナを力づくで言いなりにさせようとするのだ。ディミートリー大尉と交わした甘いキスを、じぶんにも強制しようとする姿は、むしろ捨て鉢で痛ましい。しかしこの場面の迫真は、ロン・チェイニーが怪奇役者の狭い枠にとらわれていない名優だということを今回も納得させるだろう。全篇に垣間見える意外な男前ぶりが、この場面ではとりわけ印象深い。

やがて形成は好転する。ノヴォクルスクの危機に白衛軍が駆けつけた。騎兵刀を手に指揮するディミートリー大尉の部隊によって邸宅は解放された。タチアナの無事をよろこぶディミートリー大尉は、邸内の赤衛軍たちを全員銃殺するよう部下に命令する。
セルゲイも捕らえられた。彼も銃殺するのかどうかと、ディミートリーの部下たちは命令を待つ。しかしタチアナは、セルゲイの、はだけた胸にのこるかつての拷問の傷跡をみたとき、セルゲイがじぶんを必死で救ってくれたことを思い出す。事情を知らないディミートリー大尉はタチアナに、彼は貴女に忠実だったかと聞く。セルゲイは非常に忠実だったとタチアナは答えた。セルゲイは解放された。
いっぱう閉じ込められたままだったイヴァンと武装した赤衛軍兵士数人は、扉を重石ごとぶちやぶり、ディミートリーの部隊が去った邸内に二人だけ残った白衛軍を始末すると、タチアナとセルゲイが居る二階へ血眼で駆け上がっていく。
おこないを恥じ雪辱の念にもえるセルゲイは、タチアナを護るために一命を捧げた。光と影のコントラストを駆使したカメラが、後半の乱闘場面を格調高くもりあげるがここはまさにその真骨頂。
ディミートリー大尉が戻ってくると、もはやセルゲイはタチアナにみとられて死ぬ寸前であった。ディミートリー大尉はタチアナと抱き合い、無事をよろこぶ姿がセルゲイにも見える。
しかしタチアナは、イヴァンのナイフに刺されながらも相手を斃おし自分を護ってくれた血まみれのセルゲイにむけて、心ばかりの感謝の言葉を捧げる。私とあなたは、いつまでも一緒と。

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ロシアが舞台の、貴族と平民との階級闘争ものは『戦艦ポチョムキン』を初めて観て以来惹かれてやまぬテーマなのだが、『嘲笑』は、それらとは少々切り口が違っていて興味深い。
主人公のセルゲイは、感情の向くままに、誰かを愛したり憎んだりすることで、じぶんの居場所を手に入れようとするが、最後までそれができなかった。セルゲイは、階級闘争の中に入ることができずに死んでしまったのだ。
農民階級(帝政末期のロシアの、実に97パーセントを占める階級。貴族と聖職者と商工業者がそれぞれ1パーセント)に属するセルゲイは、ロシアの劇によく登場する「聖なる愚か者」が、不吉に脂っこくなったような強靭さで画面を駆けまわるが、彼には、貴族階級の心情は理解できないし、ガイダロフ氏のような成金の心情にも縁がなく、じぶんに最も近いはずのイヴァンの、どんな汚い手を使ってでも這い上がろうとする心情さえも理解することができないのだ。
死に直面したセルゲイがタチアナの感謝の言葉とともに手に入れたものは、結局自分は何者にもなれない、いかなる階級の心情も理解できないという、「成熟したペシミズムの知恵」の、非常なまでに甘美な、やすらかさだったのではないだろうか。「誰も愛さない、絶対の孤独! 誰からも愛されない、絶対の自由!」 マルセル・エラン演じる映画『天井桟敷の人々』の殺し屋ラスネールなら板につく、粋な巴里っ子の勇み肌にも縁が無いシベリアの農夫の、あまりも巨大な孤独感の抱擁。

ラストでセルゲイの、死に至る、悲しいようなうれしいような顔が大写しになった時に、反射的にある一文が頭をかすめた。家に帰って、その文が書かれている本を読みかえしてみた。
”突然、宇宙が怪しく翳った。この、群衆をふくめてあらゆるものの上に、突然蔽いかぶさった影は、絶望を眼前にしたわたしの孤独感の影だったのだ”
( ジャン・ジュネ 『泥棒日記』 )


映画の題になった『嘲笑』とは当然ながら、他人を卑下する、睥睨するような意味だけには狭まらない。
ロン・チェイニーの、終幕の、笑い顔のような憂い顔が、一生忘れられないほどの嘲笑で、いまこうしてキーをたたきつづけている心身を、隅々まで圧倒してくるのだ。






こんかいピアノを担当した柳下美恵さんが弾くサイレント映画の上映会に接するようになって今年で10年になるが、ピアノを聴きながら、上に書いたようなことを思えた事が、非常にうれしかった。



本郷中央教会(文京区・東京)12月15日、土曜日。




 

 

※『嘲笑』の舞台になった、ロシア内戦時代に撮られた写真を中心に貼ってみた。
1枚目の黒装束は白衛軍の"黒の男爵"ピョートル・ヴラーンゲリ 
2枚目は、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の四人娘、タチアナ(左)とオルガ(右)。1913年撮影

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by lecorsaire | 2012-12-18 16:02 | 映画

ヴァレンチノの『血と砂』 闘牛士の衣装

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Blood and Sand (1922) Rudolph Valentino
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by lecorsaire | 2011-07-21 22:46 | 映画

「騎上の陛下におかせられては周知のごとく、人生はもっとも大胆で華麗な賭けをうたう剣とマントの物語でございます」


by lecorsaire
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